白洲次郎・白洲正子夫妻のこと

白洲次郎、この人の、どこが「凄い」のか一向に分からない。周囲の「評判」だけで物語が作られて、本筋がまったく見えない不条理劇のような人だ。
バンカラ気質というか、お坊ちゃんであればこそ、「不良」に憧れ、評価される面もある。麻生太郎の「悪好み」もその一種だろう。そう言う面で、随分過大評価されているように感じなくもない。
背が高かったとか、高級車を乗り回していたとか、そもそもそういう話で、政財界の人物を計ろうということ自体、ヤンキー趣味丸出しで苦笑せざるを得ない。
ケンブリッジ入学は当時の状況で言えば財力とコネクション次第である。国内であれば、一高、帝大は難しかったのではないか。
そして英国に留学していれば、英国英語は話せて当たり前である。
この人自身の能力、業績、意思がどこにあるのか、ついぞ見当たらない。処世は上手ですね、という感想が出るだけだ。
日本云々に絡めて言えば、こんな人を持ち上げているようだから駄目なんだと思う。
白洲次郎と正子のエピソードを周囲の人たちが語る時、不思議なのは、どう見ても彼らの卑しい性格の現れであるエピソードが、プラスの評価をされていることだ。
今夏、週刊文春で、寿司屋「きよ田」の店主が夫妻のエピソードについて「好意的」に語っていたが、もし店主が本心から夫妻に好意を感じているのであれば、今後は出すエピソードについては選んだ方がいいだろう。
世のほとんどの人は別に白洲夫妻に心酔しているわけではない。
出されているエピソードというのが、夫妻の傍若無人さを物語るばかりで、オマージュとして成立していないことに呆れてしまった。
白洲正子は対談で「きよ田」を利用していたが、自分(正子)の目をまっすぐ見るかどうかで、その人が「本物」であるかどうかを見分けていたという。
阿呆らしくて絶句してしまった。そんな些細なことで、人の性格や能力が推し量れるはずがない。推し量れるのは推し量れると思っている白洲正子の世界を見る眼差しの単純さだけである。
白洲次郎については、どう見ても彼の性格の野卑なことばかりを店主は語っており、悪意があるのかとさえ思う。
いわく、他人様の店舗の暖簾を勝手に仕舞ったこと。
早食いなのは結構だとしても他人のペースにおかまいなしだったこと。
チップとしてくしゃくしゃに丸めた札を床に放り投げ、店員に拾わせたこと。
財界の後輩をねちねちと苛めたこと。
その癖、その後輩が白洲の親戚に仁義を通していることを知って以後は態度を豹変させたこと。
こんなのを英国仕込と言われたなら英国もさぞや迷惑だろう。
すべて下衆の所業である。
結局のところこんなのをのさばらせたところに戦後日本の汚点があった。
民主党政権ではこういう部分をも一掃して欲しいものだ。