外交の目的

外交のそもそもの目的は「不確実性」を減少させることにあると思う。究極的には平和の構築に目的があると言えるが、平和主義が却ってエントロピーを増大せしめる場合があるのは、ネヴィル・チェンバレンの路線が失敗した史実を例にしても言えると思う。
ヒトラーチャーチルを戦争屋、好戦家と呼んで非難したが、両者の戦争路線に違いがあった点を上げれば、ヒトラー軍国主義エントロピーを増大せしめたのに対して、チャーチルの戦時体制はエントロピーを減少せしめた点である。


基本的には外交政策の是非は、エントロピーの増減の視点で推し量られるべきだと思う。
この視点で見れば侵略戦争は基本的には侵略された側が悪い、という前提で捉えなおされるべきだと思う。
侵略されたと言う事実は、侵略が可能な状態で力の空白があったということであり、エントロピーを増大せしめていたからである。
ある小国が自衛可能な十分な武力を持つ、または徹底抗戦の姿勢が国民の間に見られるのであれば、侵略コストが膨大になるため侵略を誘発しないのである。また、そういう国であれば列強諸国にとっても、他の列強の軍事勢力下に陥るリスクが小さいため、独立を尊重できるのである。
侵略戦争を含めたほとんどの戦争が、予防戦争として生じていることを踏まえるならば、侵略戦争はいけない、侵略された国は被害者であるとする従来の戦争観は、かえって戦争を誘発するものであると考える。
侵略戦争は、侵略する側にとっても現状の秩序を維持するために止むを得なくされることが多いのであり、他に選択肢がない状態で行われることが多い。従ってその点で、侵略国がエントロピーを減少させようとしている側であるならば、侵略国を責めても無益である。やらざるを得ないことをやっているだけだからだ。
真に問題とされるべきは、小国がエントロピーの問題について正確に理解しているかどうか、エントロピーを減少させるように合理的に振る舞っているかどうかである。


小国にとって唯一合理的な外交政策は、現状維持国の側に立って、同盟を誠実に履行することだけである。
しばしば小国は、エントロピーの増大の中に、自国のフリーハンドを見出す傾向にあるが、それは地域のエントロピーを増大せしめ、現状維持国、現状変更国双方に侵略のインセンティヴを与える。大国が小国の振舞いによって、手足を縛られることを容認するはずがないからである。
小国にとっては現状維持国は既知の脅威である。現状変更国は未知の脅威である。そのため既知の脅威に対する警戒心に引きずられがちではあるが、未知の脅威への接近は、未知であるがために既知よりもはるかに危険である。
現状変更国が小国に気遣うべき理由は更にないわけであるし、現状維持国に対してもエントロピーの増大に対処しなければならないというインセンティヴを与えるからである。
小国が地理的、権益的に重要であれば大戦争を誘発する引き金になりかねないし(そしてしばしば小国は戦場になる)、それほど重要ではないと見なされれば、大国間の取引材料に堕すだけである。
そうした事態を避けるためには、小国は現状維持国と同盟を結び、同盟者として十分にメリットがあることを示す必要がある。現状維持国にとって、最大の目的はエントロピーを減少させることにあるのだから、小国のどっちつかずの政策によって小国自体がエントロピーを増大せしめる装置となる場合は、むしろ敵と捉えた方がエントロピーの増大を防ぐことになる。


なぜしばしば、戦間期ポーランドのような愚かな小国が出現するのかという命題は、それ自体が興味深いテーマではあるが、たいていはナショナリズムに引きずられて、ということになる。
同じヨーロッパであっても、ノルウェーははるかに信頼性のおける同盟者である。単に人口や経済規模だけではなく、諸々の局面において合理的に振る舞えているかどうかがその国の同盟相手としての価値、国際的なインフルエンスの価値になる。
ノルウェーは同盟者として価値はあるがポーランドには二束三文の価値しかない。
問題は、戦後の歴史学の視点に置いて、エントロピーを増大せしめたポーランドの責任を問う声がほとんどないことである。これはイデオロギー上の善玉悪玉に引きずられて、バランスオヴパワーを前提とした構造問題にまで分析が達していない、あるいはイデオロギー勢力によって敢えて歪められているからだろう。
これは「大戦争を避けるために構造を理解して全力を尽くすべき」という現代人の最重要倫理からすれば、どれほど非難してもしすぎることのない欺瞞であろう。