巌窟王、感想

これももう4年前のアニメだ。
テレビアニメだけでも、年に何十本と製作されて放送される日本では、仕事も所帯も持っている私はとてもではないが、そのうちの二、三本でも見られればいい方だが、「たまたま見た作品」がわりあい傑作ばかりなのは、日本のアニメの水準全般が高いのか、ものすごく運がいいのか、たぶん後者なのだと思う。
世評が高い、ブロゴスフィアでも取り上げられがちな「萌え系」のアニメなどはどうしても触手が伸びないし、「ガンダム」系も試しに観ては、あんまり感心しないのだから。
つまり私にとって良質なアニメとは、今日のアニメーション作品の幾つかの大潮流を避けながら、稀に孤島にたどり着くようなものである。


巌窟王公式サイト)は一話か二話か、話のかなり早い時にたまたまテレビで見て(TBSローカル放送だったようで、首都圏の人以外は視聴できなかったよう)、とにかく映像が美しくて衝撃を受けた。
髪や瞳や服が鏡面のように、別の質感を持っていて、言葉では表現しがたいが、見ればすぐに分かる「美しさ」を持っていた。
アールヌーボー風の雰囲気とでも言うべきか。そういう意味では世紀末芸術風の洗練と古典的な商業芸術の伝統をしっかりと引き継いでいるのだが、それを絵画ではなくアニメーション作品で表現できるようになったのは、1990年代以後の CG の発達を前提としている。
業界でも先進的な技術を持つことで知られる製作会社、GONZO ならではの作品だ。
話としてはアレクサンデル・デュマ(大デュマ)の「モンテクリスト伯(日本では黒岩涙香の翻案によって「巌窟王」の異名でも知られる)」を土台にしているが、宇宙時代の地球を舞台にしている他は、ストーリーやキャラクターの造形はわりあい忠実に原作を模している。
モンテクリスト伯エドモン・ダンテス)と、その復讐の対象であるモルセール将軍(フェルナン・モンテゴ)を結びつける、モルセール将軍の息子アルベールは、原作では重要ではあるが脇のキャラクターであるのに対して、この作品では主役、かつ視点に据えられているのが違いである。
これによって、復讐を受ける側の被害者という、更に重層的な視点が提示されており、ラストへ向けた「救済」に説得力を与えている。
エドモン、フェルナン、メルセデスという、かつて裏切りを招いた三角関係に対比して、その息子たちの世代として、原作にはないキャラクターを登場させて、アルベール、フランツ、ユージェニーという、真実の友情を提示することによって、愛のふたつの方向を示している。
つまり、復讐に囚われるのも愛ならば、復讐に絡めとられないのも愛であるのだと。
愛と裏切り、陰謀と真実の狭間にあって、主人公アルベールは徹底的に傷つけられ、のた打ち回るのだが、彼が生来に純朴であり、誠実な人物として描かれているため、その痛みはそのまま観る者の痛みとなって迫ってくる。
彼の痛み、怒り、悲しみはどこへ向かうべきなのか。
直接の加害者であるモンテクリスト伯エドモン・ダンテスは自らに加えられた痛み、苦悩にもがいているに過ぎない。
では憎悪の対象として、ダンテスを陥れた首魁であるモルセール将軍へと向かうべきなのか。
結果的にダンテスを裏切ってモルセールと結婚した、ダンテスのかつての婚約者メルセデス(アルベールの母)へと向かうべきなのか。
アルベールを視点に据えなければ、物語は直線的な復讐譚となっていただろう。
それはそれで見る者にカタルシスを与えるはずだが、この「巌窟王」とはまったく違った物語になっていたはずだ。
この「巌窟王」にあっては、ダンテスの復讐のカタルシスを堪能することはすなわちそのまま、無垢で、純粋で、善良なアルベールが、裏切りと苦悩にのたうちまわることを意味する。
アルベールの親友、フランツはアルベールを守るために、モンテクリスト伯によって「殺害」されるのだが、その痛みは、「正当なる憎悪」の前には甘受しなければならないものなのか(ところでフランス語の固有名詞で統一されているこの作品にあって、フランツのみは明白にドイツ語の名前を持っている。このことに何かの意味はあるのだろうか)。
アルベールにはいかような道も可能性として提示されている。
モンテクリスト伯に復讐すること。
モンテクリスト伯を復讐へと追いやった父や母を糾弾すること。
世界そのものに絶望すること。
しかし彼をそのいずれにも進ませなかったのは、第一にそのすべての人々に対する共感と愛情を抱く立場に彼がいるということであり、第二に、愛のダークサイドに彼が絡めとられることを決して望まなかった、彼を守って死んだ親友の愛に報いるためである。
そのことが、この作品が原作を基本的には丁寧に追いながらも、まったく異なった物語になっていることの理由である。
つまり、復讐とその成就の物語ではなく、復讐とその昇華の物語への「ずらし」である。


ここまで見たように、この物語の中心には役割としてアルベールが物語の意味を変換する存在として据えられているのと言えるのだが、こうした役割としてのキャラクターを中心に据えることは実はかなり難しい行為である。
アルベールは対比するために「善良、純朴でなければならない」。
アルベールは翻弄されるために「無力でなければならない」。
アルベールの性格は、彼がどのような性格でありその結果、物語がどう進行するかというのとはまったく逆方向に、物語の役割から敷衍して規定される。
彼は本来は行動する人ではなく、視点であり、中心にある「位置」である。
そうした存在が実在性を帯びたリアリティを持つことは一般にごく困難であるのだが、実は本来的に無個性とさえ言える彼の「善良さ」を浮かび上がらせるために、彼の友人フランツを置くことによって、更にもうひとつ、視点を設定している。
それは善良なアルベールを「愛でる」という視点である。
見る者によって見られる者は実体を帯びるのだ。
アルベールはあまりに純朴でまっすぐなので、取り繕うということが出来ない。特に、親友のフランツに対してはそうである。
例えば、しばらくぶりの再会をアルベールとフランツが喜ぶ場面で、アルベールは伯爵に裏切られた悲しみをそのままフランツにぶつけ、鼻水をたらしながら泣く。
鼻水の表現自体、アニメ作品ではごく珍しいのだが、そうした明らかに「汚い」ものまでも、率直さとして愛することができる、フランツによる無条件の肯定があってこそ、アルベールの善良さは実体を生じさせることが出来る。
無償の愛はそれを与える人の性格であると同時に、その対象の性格をも意味する。
物語は更にそのフランツを失わせることによって、アルベールに抜き差しのならない選択を迫ってゆくのだが、こうした表現とエピソードの積み重ねによって、中心でありながらアルベールは明確な輪郭を帯びて、視聴者にその苦しみを叩きつけるのである。


巌窟王」は全24話だが、最終話はまるごと、事件から5年後の後日譚に振り向けられている。
5年後、アルベールは「モルセール家」の地位も財産もほぼ失いながら勉学に励んで外交官になっているのだが、その間、一度もパリを訪れず、墓の下のフランツにも会っていない。
5年ぶりに墓参したアルベールは、フランツに、フランツの遺言があってなお、復讐に絡めとられないためにフランツを含めた過去を振り返ることが出来なかったと告白するのだが、フランツが提示した道、アルベールが選択した道が決してきれいごとでもなければ楽でもなかったことが、この後日譚があることによって提示できるのだ。
そのことによって、この物語が単なるモンテクリスト伯の反語ではなく、アルベールの物語として、まとまりを持って綺麗な形で fin を描くことができる。
これはモンテクリスト伯の物語ではない。
アルベールの人生の物語である。


アルベールの外交官日記
↑更なる後日譚としてこのようなブログが。公式のブログのよう。
インターネット時代にはいろいろスピンオフがあるものよ。