暗殺の是非

安倍元首相が暗殺されたが、皆皆が言う通り、暴力には絶対反対、とは私は思わない。殺害の理由、および効果次第である。

今現在、私はプーチン暗殺を支持しているし、中共の犬とでも言うべきジャッキー・チェンを誰かが殺したとしても、まったく悔やむ気にはならない。

今回の件でも、犯人が示唆しているように、統一教会安倍晋三とのずぶずぶの関係が、凶行の原因であるならば、日本としては実に困ったことになると思う。

左翼や中国人が犯人ならば良かった。

多くの無辜の人々の生活を破壊している国際的なカルト組織と、日本の元首相が明確につるんでいるなど、日本の異常性、日本の恥以外のなにものでもない。

他国から見たら、なぜ規制していないのか、著名な政治家がカルトと戦うのではなく、なぜ迎合しているのか、日本はおかしな国だと思うだろう。そして、元首相からしてそんな異常行動をとっていたのであれば、非常の方法でしかこれを正す方策は無い、犯人の行動は正当な抵抗権だと考える人も出てくるだろう。

 

通常は、政治的な暗殺は逆効果になることが多い。

火に油を注ぐことになりがちだからだ。

だが今回の暗殺はそうさせてはならない。統一教会が日本を蝕んでいる異常性を、異常性としてはっきりと暴き出すべきだ。

国際社会と虐めのアナロジー

国際社会を、通常の主権国家の社会の枠内の見方を用いてアナロジーで捉えるのは、非常に危険だと思う。弱者や被害者側の「非」を言えば、「虐めやレイプ被害者を責める発想と同じだ」と激高する人たちである。

そもそも「虐めとレイプ被害者の応対上の非を指摘することが、責めることなのか」と言う問いがある。司法や治安機関が管理しきれない余地があってこその現実社会であり、「夜中に出歩いたら危ない」と女性に忠告することが、果たして被害者を責めることなのだろうか。

ゲーム理論的に捉えるのであれば、犯罪被害者の増大は功利的な犯罪加害者にインセンティヴを与えるので、犯罪被害者は犯罪をエンカレッジする要素である。善悪や被害加害、感情の問題を棚上げしてまずはゲーム理論的に事象を捉えなおすことが大事なのだ。

なぜならば世界はそもそも善悪や倫理に基づいて構築されていないからである。世界と社会は違う。

社会はしょせんフィクションに過ぎない。

 

問題は国際社会においては、国家の上に置かれる執行機関が存在しないことである。

警察も、確たる司法制度も無い国際社会において、小国が生きると言うことは、立ち回るということである。

ただひたすら善悪の問題ではなく、ヤクザ相手の妥当非妥当にすぎないのだ。国際法が実体を持つには、人類が合意し得る正義に基づいた武力統合体が出来なければならないだろう。それが出来たとして、その正義の名における不正義は防ぎきれない。

今回、ウクライナがロシアに侵攻された。

実際問題として、ウクライナ東部やクリミア半島、ロシア系住民が多い地域ではロシア侵攻に抵抗しない傾向が強いが、ならばウクライナが予防的にロシア人を虐殺するのは是か非か。

帝国主義の結果として移入してきたフィジーのインド系住民や、南アやマレーシア、ビルマなどのインド系住民を排斥するのは正義か否か。

今現在の侵略が悪であるならば、過去の侵略の結果現状があるオーストラリアなどの国家の白人を殺害することは正義か否か。

誰もが納得する正義などありはしない。

その中でサヴァイヴァルのための方策が非合理であったから、ウクライナは侵攻されたのだ。そこに非合理がありましたよねと指摘することは、虐めに加担することでは無い。なぜならば虐めがなんであるかを規定する合理性を国際社会は所有していないからである。

ゼレンスキー演説(日本)絶賛傾向について思うこと

内容はともかく、所謂、演説効果について、この演説の日本人の反応について考えてみる。

よほど外国人と深刻な論争で英語で対峙した経験が日本人の大部分には無いのだなと感じた。ゼレンスキー演説はかなり出来が悪い文章だ。同様の文章は、ある程度の文章の専門職がキーワードをちりばめれば書ける水準のものだ。日本に対しては敢えてその程度のものをぶつけてきたという政略的な意味はあるが、あの演説を褒めるのは、その人の水準が低すぎるからではないか。

ルース・ベネディクトの「菊と刀」は日本語も読めない、日本に来たことすらない彼女が、英語文献から二次的三次的に再構築した日本像である。その手法自体、今日的には唾棄すべきなのだが、個別にみて行けば反証がいくらでもあるのに、キーワードで再現すると言う手法が、欧米圏にはあると言う一例である。

大して知りもしない白人が、俺は日本を知っているぞと大きく見せるために適当なキーワードをちりばめることはよくあるのであって、ゼレンスキー演説の内容は典型的なそうしたフェイクジャパノロジストの水準のものだった。

あれに騙されている日本人の知的水準がとても心配になる。

ジャレッド・ダイアモンドが極力、オリエンタリズムやエキゾチズムを除外して世界史を再構築したように、世界史の個々の地域の動きは善悪や文化ではなく、9割以上はゲーム理論と経済合理性で説明がつくものだ。

 

単純に政治的演説の傑作とされるような、チャーチルの諸演説や、ケネディの演説、リンドン・ジョンソンの演説と比較しても、出来が悪い。戦時というドラマティックな背景があってなお、あの程度と言うのは、要は東洋史を構造としては知らないからだ。その程度のなんちゃって知識人が関与しているのである。

「よほど優秀なスピーチライターが書いている」とか言ってしまっている人は、プロのライターを舐めすぎだ。

それは日本の政治や社会が言葉で動くものではなかったからかも知れない。

だがそれで良かったのだと思う。

当たり前の事実だが、政治的演説とは洗脳である。言葉で動く社会は、理性とロジックを重んじない社会である。つい先日も、ニューヨーク州のクオモ知事が演説で大絶賛されていて、その後すぐに不正と失敗があかるみなった事例もあったではないか。

演説は基本的にはペテン師の仕事であって、それが良い方向に行くか悪い方向に行くかの違いだけだ。

なぜ、他国の指導者のこの程度の雑な演説で踊らされている日本人が多いのか、まったく理解に苦しむ。個人的な問題のせいで大きな物語を欲している人たちが増えているのかも知れない。

 

ゼレンスキー演説(日本)絶賛傾向について思うこと

内容はともかく、所謂、演説効果について、この演説の日本人の反応について考えてみる。

よほど外国人と深刻な論争で英語で対峙した経験が日本人の大部分には無いのだなと感じた。ゼレンスキー演説はかなり出来が悪い文章だ。同様の文章は、ある程度の文章の専門職がキーワードをちりばめれば書ける水準のものだ。日本に対しては敢えてその程度のものをぶつけてきたという政略的な意味はあるが、あの演説を褒めるのは、その人の水準が低すぎるからではないか。

ルース・ベネディクトの「菊と刀」は日本語も読めない、日本に来たことすらない彼女が、英語文献から二次的三次的に再構築した日本像である。その手法自体、今日的には唾棄すべきなのだが、個別にみて行けば反証がいくらでもあるのに、キーワードで再現すると言う手法が、欧米圏にはあると言う一例である。

大して知りもしない白人が、俺は日本を知っているぞと大きく見せるために適当なキーワードをちりばめることはよくあるのであって、ゼレンスキー演説の内容は典型的なそうしたフェイクジャパノロジストの水準のものだった。

あれに騙されている日本人の知的水準がとても心配になる。

ジャレッド・ダイアモンドが極力、オリエンタリズムやエキゾチズムを除外して世界史を再構築したように、世界史の個々の地域の動きは善悪や文化ではなく、9割以上はゲーム理論と経済合理性で説明がつくものだ。

<br>

単純に政治的演説の傑作とされるような、チャーチルの諸演説や、ケネディの演説、リンドン・ジョンソンの演説と比較しても、出来が悪い。戦時というドラマティックな背景があってなお、あの程度と言うのは、要は東洋史を構造としては知らないからだ。その程度のなんちゃって知識人が関与しているのである。

「よほど優秀なスピーチライターが書いている」とか言ってしまっている人は、プロのライターを舐めすぎだ。

それは日本の政治や社会が言葉で動くものではなかったからかも知れない。

だがそれで良かったのだと思う。

当たり前の事実だが、政治的演説とは洗脳である。言葉で動く社会は、理性とロジックを重んじない社会である。つい先日も、ニューヨーク州のクオモ知事が演説で大絶賛されていて、その後すぐに不正と失敗があかるみなった事例もあったではないか。

演説は基本的にはペテン師の仕事であって、それが良い方向に行くか悪い方向に行くかの違いだけだ。

なぜ、他国の指導者のこの程度の雑な演説で踊らされている日本人が多いのか、まったく理解に苦しむ。個人的な問題のせいで大きな物語を欲している人たちが増えているのかも知れない。

 

ウクライナ戦争について、ここまでの私見まとめ

僕は別にプーチンの肩を持つわけではないが、冷戦終結期のNATO不拡大の「約束」自体はあったと思っている。もちろん公文書や協定では残っていないだろうが、同時代を生きてきて、ここが疑われていることに驚く。

当時はNATO不拡大はむしろ常識であって、マスコミはそれを前提にした論調になっていたと思うのだが。公電や記者会見の記録でも残っているだろう。それを「約束」とみなすかどうかの話であって、信頼に価値を置く、信頼が相互理解の根底であるとみなすならば、いまさらソフィストまがいの詭弁を弄しても、分があるのはロシアであると思う。

NATOはもちろん対ソ封じ込めの道具であって、冷戦終結後、その存在意義を失くしたのである。このゾンビをそれぞれのプレイヤーがそれぞれの思惑で生かし続けたためのコンフリクトだろうと思う。

アメリカにとって今現在、NATOが存在する利益はなんだろうか。

第一に、単独の軍事行動を、多国籍に及ぼす装置になっている。それくらいだ。

私がアメリカ大統領ならば、廃止、もしくは脱退に踏み切っていると思う。デメリットの方が遥かに大きい。

WTOを廃止したソ連・ロシアに呼応せずに相互主義を害する。ロシアの被害者意識と過剰な警戒心を強化させてしまう。

NATO加盟国、特に「国境が遠くなった」国々の国防意欲を毀損させる。ドイツの軍事パートナーとしての無責任ぶりはこれに起因している。

③圧倒的な軍事保障下にあって、軍事当事者性を弱くした国々が、個別のテーマでアメリカと競合したり足を引っ張りかねない。ドイツやフランスの、教導者然とした振舞い、パックスアメリカーナへの攻撃、更には特にドイツに見られる別方面におけるアメリカの敵(中国)への加担。これらもNATO存在のおかげで国防案件が限りなくフィクショナルになったせいである。

 

NATOを解体して、必要ならば必要に応じて二国間軍事同盟に切り替えることで、アメリカは各国を切断操作できるし、アメリカvs他加盟国の構図ではなく、ヨーロッパ相互の軍事的緊張も高めることが出来る。もっと言えばドイツを欧州の敵にできる。ドイツの失墜はそのままアメリカに利益である。

仮にドイツが主導して欧州軍事同盟が結成されたとしても、徹底的にエゴイズムな行動様式を持つドイツ人が、アメリカ人のような信頼ある調停者になれるはずがない。そのヒビは、EUのまとまりをも揺るがすであろう。

ロシアの脅威がフィクショナルになりつつある状況では、EUにとっては中国は軍事的脅威にはなり得ないので、おのずとアプローチが日米とは異なる。つまりEU-中国連帯と言うものを常に想定しておくべきなのであって、EUを分裂させる、もしくは弱体化させると言うのは、大西洋のみならず太平洋にも脅威を抱えるアメリカとしてはやっておくべきことなのである。

a. 二国間防衛体制に移行して欧州をコントラーブルな状況下におくこと

b. ドイツの突出を防ぐこと

c. EUを独立したプレイヤーとはせずに、中国との協調関係を叩くこと

これだけの効果がNATO廃止だけで見込める。

ましてNATO拡大などは、アメリカにとっては、「予測困難な全面戦争に巻き込まれる可能性」を増やすだけであって、ポーランドバルト三国NATOの傘を必死に求めるのは理解できるが、アメリカには何の利益もないのである。

なぜそうならなかったのか。

第一に、アメリカ白人がヨーロッパに過度に重視するエスニックノスタルジーのせいであり、第二に、アメリカの外交マフィアの中に東欧人が紛れ込んでいて、彼らが「祖国」のためにアメリカを使おうとしたからである。

アメリカが移民国家であるせいのいびつさであり、これは戦後ずっとユダヤロビーのために中東地域でのアメリカの国益が毀損され続けているのと同じ現象である。

もし私がアメリカに絶対の忠誠を誓い、アメリカのためにすべてを数学的に処理できるならばそもそも私は首都を西海岸に移動させるだろう。それくらいしなければ、アメリカはプライオリティが高い太平洋国家としての性格をまっとうできないだろう。

とにかくアメリカにはアメリカの事情があって、数学的合理を必ずしも取れない、と言うことである。その非合理さが、ウクライナに凝縮してしまった。

ドイツは冷戦末期に「いつまでもヨーロッパの端ではいられない」と言うのを国是とした。冷戦期はドイツはまさしく最前線にあった。東西熱戦が起きれば戦場になるか、真っ先に焼かれる立地だった。緩衝国家を望むのは当然と言えるだろう。

ポーランドチェコスロバキアハンガリーバルト三国NATOにもEUにも組み込んだのはドイツである。アメリカはクリントン政権期は完全にそれに乗せられていた、と言うか積極的に加担した。アメリカ外交マフィアのドン、キッシンジャーブレジンスキー、オルブライトはいずれも「東欧人」である。

ギリシャのユーロ参加を黙認したのも安全保障上の理由があってのことだろう。ただし、ルーマニアブルガリアは距離があるのでそこまでドイツにとっては「どうしても」と言う国ではなかった。ウクライナは煽りはしたが、ロシアとの権益のためならば捨てられる程度の相手だった。

ウクライナは中立になるのが、妥当な落としどころだっただろうが、中立になると言うのはかなり難しい。卓越した外交能力と自制が必要になる。バカには中立政策はとれないのだ。

よほど理性的に振舞わなければ予防戦争を誘発する。今回のウクライナ戦争は典型的な予防戦争だろう。

損得勘定から言えば、アメリカにとってはウクライナはどうでもいい国か、むしろ憎い敵国である。ウクライナは中国から利益を引き出すべく振舞ってきた。それはアメリカの敵ということであり、「間違っても民主主義の大義を掲げるアメリカは攻めてこない」と舐めた振舞の結果である。

ドイツにとっては「そこまで重要な国」ではない。できれば関わりたくない。

しかしゼレンスキーは、穏健に理性的に中立的に振舞ってロシアとなんとかやっていく、と言う道ではなく、演劇的に旗を掲げて「一皮むけば口先だけの老民主主義国」を自爆で巻き込むという戦略をとってしまった。

役者である。主演役者である。

もちろん実際に侵攻したプーチンが悪であり、どうしようもないのは間違いないことであるが、ゼレンスキーのウクライナが、殺害される何千人ものウクライナ児童を生み出したのも事実である。

ウクライナバルト三国のような、非の打ちどころのない「弱者」でも「被害者」でもないのだ。フィンランドのように忍耐心の限りを尽くした理性もなく、とてもとても若い国である。

プーチンはまあ、プーチンである。最初からプーチンだった。酷い指導者だが、あれでなければロシアがまとまらないとロシア人が思うならそうなのだろう。私には関係のないことである。ロシア人の幸福はどうでもいいし、集団としてのロシア人を信用できる要素は最初からかけらもない。

だから私が彼らを見る目はヒグマを見る目と同じである。ヒグマに人間性を期待する方が無意味だろう。彼らの抱えたあまりにも巨大で自己愛に満ちた被害者意識は、合理的な政策をとりづらくさせ、他者よりも自分自身を傷つけている。しかしそれもまた人間である。人間であることはヒグマ性を内包している。

ゼレンスキーもそのような人として扱うべきだろう。ウクライナを支援するなというのではない。自分の演劇性のために子供を死なせるような男である。国民全員に戦えと命令するような男である。傭兵を国内に入れてしまうような男である。彼の立場では一生懸命やっていると言う人もいるかもしれない。

だが指導者がそう言う立場にたたなくてすむように行うのが政治である。今目の前にあるのは政治の失敗であって、それを許してしまったロシア人とウクライナ人双方の幼稚さである。

なぜ日本人が巻き込まれる必要があるのか。私たちはそんなに安くはない。

起きてしまったこととして次善の策としては、ウクライナが負けないように引き伸ばす、しかないだろう。それはつまり、ロシアの力をそぎ、ロシアの指導者に望ましい人物が立つまでウクライナ人には死に続けてもらうということである。

 

 

男の生き辛さと女の生き辛さ

女の生き辛さはは、基本的には身体的な制約から生じる「社会的不適合性」のために生じている。これはすなわち、「女だからこれをしてはならない」「女だからこれをしなければならない」と言うジェンダーの押し付けをゼロにする、つまり本来の語義的な意味での「男女平等」を為したとしても、生存競争において脱落する、不利を被る可能性が高いと言うことである。

対して、男性の生きづらさは、「男だからこれをしなければならない」「男だからこういう配慮をしなければならない」と言うジェンダー押し付けに拠るものであり、「男女平等」は女性を解放することはなくても、男性は解放されるのである。

つまり、女性が生きづらいのは当人の生物的な無力さのせいであるが、男性が生きづらいのは女性のせいなのである。

 

先日、いわゆる「無敵の人」が保育を襲撃する未遂事件を起こしたが、犯人を取り押さえたのはまたしても男性職員だった。

こうした事件で、保護対象者を保護した性別が10件調べれば10件とも男性であるからにはこれはもう偶然ではない。

弱者属性を有する被保護対象者を扱う職業においては、女性には職業適性がなく、男性の「犠牲」の上に、本来、男性労働者が得るべき地位や収入を収奪しているのである。

フェミニズムは「男女の解放」を目指す思想ではなく「女性の権益を拡大する」ことが主目的である以上、この奴隷的収奪にフェミニストが言及しないのは当然とも言えるが、それらが言及しないからと言って、その奴隷的収奪が覆い隠されるわけではないのである。

 

本来ならば、フェミニズムが要求できるのは、1に無能力の結果を甘受して誇りだかい貧困を受け入れるか、2に無能力を認めた上で男性のリソースを収奪して男性に依存する劣位性を受け入れるかの二者択一でしかない。

 

男女平等は過分に負わされるリソース収奪甘受の義務から男性を解放するので、男性にとっては望ましいことでしかない。

 

20年の休暇

 最近の国際情勢を見ていれば、20年前、standpoint1989 の名前で、「小さな目で見る大きな世界」と言うブログをやっていた頃に言っていた通りになって来ていると思う。カッサンドラを気取るつもりは無いが、どうして頭の良い人たちが、構造を読めずに20年間を無為に過ごしてしまったのか。

 私は副業として小説を書いていて、そちらでもいくばくかの収入がある。文学者と言えば文学者であるし、感情表現のプロであると言えば感情表現のプロである。逆に、私にしてみれば感情や性格、倫理などは、「技巧」でしかないので、そこに本質があるとはまったく思っていない。

 しかし、多くの人にとっては、可能な限り、であっても自分と言う人格を含めて、感情を引き剥がして世界を見ると言うことが、どうもよほど難しいことらしい。

 リアリズム、と言えば陳腐になるが、リアルの世界がリアルに依存している以上、リアルに基づかずして何一つ議論できないのにもかかわらず、イデオロギーと言う自家中毒に人類が陥っているように見える。

 急いで言っておかなければならないのは、イデオロギーのリアルにおける効力を私は根こそぎ否定しているわけではないと言うことだ。おそらくは私たちは「嘘をつく」ことによって、ホモ属の兄弟たちを殺害して孤独の勝利の地平に立っているのだから。

 20年前、ニューヨークの双子の巨人が崩れ落ちた。天を支えるアトラスが膝を屈したかのようであったが、何千人もの狂信者が頑張って頑張って命を犠牲にして計画実行してもしょせんはあの程度である。

 構造的な問題から、目を逸らす結果にしかつながらなかった。テロとの戦い。戦う必要も無かったのだ。特にアメリカ合衆国にとっては。イランや、イラクで人々が圧政に晒されている。それがどうした。そんなのはそれぞれの国民の自業自得ではないか。

 石油の権益も独裁者たちと話を付けた方がよほどやりやすい。

 アメリカ合衆国が迷走した責任は、ユダヤ人のせいである。

 第一にアメリカの国益には直接絡むことは無いイスラエルの生存が、優先順位の高いタスクに設定されてしまった。

 第二にロシアへの復讐心が限度を越えて強調されてしまった。

 これが公式のマスメディアで言われることはおそらくないだろう。アメリカにおける、第2次大戦後のユダヤ人の悪影響は、帝国が内部においてインナーエスニシティを持つことの危険性の代表的な一例になるだろう。

 個々人のユダヤアメリカ人の是非とはまた別の話であるが、ユダヤ閥の問題は、アメリカ外交を構造の問題から切り離して不自然な動きをさせたことにある。

 親イスラエル=反ロシア=親中国の動きは、それは反テロリズムの動きが彼らにとって都合がよかったことから、20年の無為をもたらすことになった。

 

 普通に考えればユーラシアに台頭する2大国のうち、ロシアと中国のどちらが海洋勢力にとって脅威となるかと言う単純な話である。

 早い段階でこの単純な構造への適応に着手していれば、中国がそもそもこんなに強力になることはなかっただろう。

 過去に何度も言ったが、これはアメリカ人の悪癖である。キッシンジャーブレジンスキーほど個人としてこれほどの損失を祖国にもたらした人たちはいない。彼らがもし、「アメリカの国益」にプライオリティを置いていたのだとすれば、私は世界史史上最悪の無能は彼らであると断じられるほどだ。

 アメリカは超大国であり「島国」であるがために、世界情勢に鈍感であっても生き延びられるのだ。その鷹揚さが、国益の確保において失敗すれば死ぬしかないと言う切迫さを持っている他大国とで競り負けると言う結果を何度も何度も引き起こしている。現代史を見る限り、アメリカ外交ほど失敗続きの事例は無いと言えるほどだ。

 優秀な無能者たちが、個々人の利益のために動いているからである。

 中国は憎悪によって作られた国である。憎悪によって作られた国は強い。19世紀以後、中国がしてやられたのは地物博大の国だったからである。中国は世界だった。世界人であることは、何物をももたらさない。李朝が弱小だったのはその世界性を真似したからである。

 排他性、憎悪、恐怖、嫉妬、それらこそが民族を形作る。他者を持たない国は、他者の侵入によって自己の境界線を失うのである。

 しかし中華人民共和国日中戦争の銃火によって生まれた国である。虐殺を餌にして肥え太った国である。日中戦争によって中国人は初めて他者を持ち、他者を持つことで初めて自己を持ったのだ。

 こう言う国は強い。

 早めに封じ込めに走るべきであった。いや、少なくとも日本は、冷戦直後からその動きは見せていたのである。宮沢プランとEAEC構想。いずれもビル・クリントンによって叩き潰された。

 アメリカは幸福な国である。ビル・クリントンのような言語道断の愚者が政権を握っても潰れない。だが、今後の検証で、彼は必ず歴史によって断罪されるだろう。

 日本の目的は、防衛的なものであったので、ならばアメリカが肩代わりして積極的に、今のQUADに相当するような機構の構築に取り組んでいればよかったのだが、それも遅れに遅れた。

 もちろんそうなるように中国側の巧妙な働きかけもあった。

 考えてみればこの、「猫撫で声」期における中国の行動を、冷戦期のソ連はほとんど採っていない。ソ連を出国した者たちは亡命者ばかりだったのに対して、中国からの出国者は中国から出国を認められた共産党員であった。

 我も人なり、彼も人なり。

 それは確かにそうだが、私は自分をさほど評価していないので、彼も人なり、ならば私程度には邪悪だろうと思う。しかしリベラル派は、あまりにも自画像を美しく描きたい傾向が強すぎるので、どうもころりと動かされる傾向がある。

 日本国内でも行われた、普通の中国人たちが行った、反ダライラマデモ、反香港民主化デモ、リベラル側からの強い粘り強い批判はあっただろうか。私は彼らを評価するに当たっては残念ながら「馬鹿」か「邪悪」かの二者択一でしか評することが出来ない。

 これは社会政策、労働政策、経済政策では、最も親和性が強い政党が日本共産党の私としては、とても残念なことである。

 

 ここに来て、トランプ政権以来、バイデン政権もまた対中国の重い腰を上げたとすれば、それは中国が馬鹿馬鹿しいほど慢心しているからだろう。中国もまた、リアリズムの統制のたがが外れようとしている。オオカミ少年たちを呼び込んでは、そのオオカミ少年たちに実権を奪われようとしている。

 こうなる前に管理の姿勢を打ち出していれば管理可能であったし、中国も落ちずに済んだのだ。私は20年前から同じことを言っている。