国際社会と虐めのアナロジー

国際社会を、通常の主権国家の社会の枠内の見方を用いてアナロジーで捉えるのは、非常に危険だと思う。弱者や被害者側の「非」を言えば、「虐めやレイプ被害者を責める発想と同じだ」と激高する人たちである。

そもそも「虐めとレイプ被害者の応対上の非を指摘することが、責めることなのか」と言う問いがある。司法や治安機関が管理しきれない余地があってこその現実社会であり、「夜中に出歩いたら危ない」と女性に忠告することが、果たして被害者を責めることなのだろうか。

ゲーム理論的に捉えるのであれば、犯罪被害者の増大は功利的な犯罪加害者にインセンティヴを与えるので、犯罪被害者は犯罪をエンカレッジする要素である。善悪や被害加害、感情の問題を棚上げしてまずはゲーム理論的に事象を捉えなおすことが大事なのだ。

なぜならば世界はそもそも善悪や倫理に基づいて構築されていないからである。世界と社会は違う。

社会はしょせんフィクションに過ぎない。

 

問題は国際社会においては、国家の上に置かれる執行機関が存在しないことである。

警察も、確たる司法制度も無い国際社会において、小国が生きると言うことは、立ち回るということである。

ただひたすら善悪の問題ではなく、ヤクザ相手の妥当非妥当にすぎないのだ。国際法が実体を持つには、人類が合意し得る正義に基づいた武力統合体が出来なければならないだろう。それが出来たとして、その正義の名における不正義は防ぎきれない。

今回、ウクライナがロシアに侵攻された。

実際問題として、ウクライナ東部やクリミア半島、ロシア系住民が多い地域ではロシア侵攻に抵抗しない傾向が強いが、ならばウクライナが予防的にロシア人を虐殺するのは是か非か。

帝国主義の結果として移入してきたフィジーのインド系住民や、南アやマレーシア、ビルマなどのインド系住民を排斥するのは正義か否か。

今現在の侵略が悪であるならば、過去の侵略の結果現状があるオーストラリアなどの国家の白人を殺害することは正義か否か。

誰もが納得する正義などありはしない。

その中でサヴァイヴァルのための方策が非合理であったから、ウクライナは侵攻されたのだ。そこに非合理がありましたよねと指摘することは、虐めに加担することでは無い。なぜならば虐めがなんであるかを規定する合理性を国際社会は所有していないからである。