ゼレンスキー演説(日本)絶賛傾向について思うこと

内容はともかく、所謂、演説効果について、この演説の日本人の反応について考えてみる。

よほど外国人と深刻な論争で英語で対峙した経験が日本人の大部分には無いのだなと感じた。ゼレンスキー演説はかなり出来が悪い文章だ。同様の文章は、ある程度の文章の専門職がキーワードをちりばめれば書ける水準のものだ。日本に対しては敢えてその程度のものをぶつけてきたという政略的な意味はあるが、あの演説を褒めるのは、その人の水準が低すぎるからではないか。

ルース・ベネディクトの「菊と刀」は日本語も読めない、日本に来たことすらない彼女が、英語文献から二次的三次的に再構築した日本像である。その手法自体、今日的には唾棄すべきなのだが、個別にみて行けば反証がいくらでもあるのに、キーワードで再現すると言う手法が、欧米圏にはあると言う一例である。

大して知りもしない白人が、俺は日本を知っているぞと大きく見せるために適当なキーワードをちりばめることはよくあるのであって、ゼレンスキー演説の内容は典型的なそうしたフェイクジャパノロジストの水準のものだった。

あれに騙されている日本人の知的水準がとても心配になる。

ジャレッド・ダイアモンドが極力、オリエンタリズムやエキゾチズムを除外して世界史を再構築したように、世界史の個々の地域の動きは善悪や文化ではなく、9割以上はゲーム理論と経済合理性で説明がつくものだ。

 

単純に政治的演説の傑作とされるような、チャーチルの諸演説や、ケネディの演説、リンドン・ジョンソンの演説と比較しても、出来が悪い。戦時というドラマティックな背景があってなお、あの程度と言うのは、要は東洋史を構造としては知らないからだ。その程度のなんちゃって知識人が関与しているのである。

「よほど優秀なスピーチライターが書いている」とか言ってしまっている人は、プロのライターを舐めすぎだ。

それは日本の政治や社会が言葉で動くものではなかったからかも知れない。

だがそれで良かったのだと思う。

当たり前の事実だが、政治的演説とは洗脳である。言葉で動く社会は、理性とロジックを重んじない社会である。つい先日も、ニューヨーク州のクオモ知事が演説で大絶賛されていて、その後すぐに不正と失敗があかるみなった事例もあったではないか。

演説は基本的にはペテン師の仕事であって、それが良い方向に行くか悪い方向に行くかの違いだけだ。

なぜ、他国の指導者のこの程度の雑な演説で踊らされている日本人が多いのか、まったく理解に苦しむ。個人的な問題のせいで大きな物語を欲している人たちが増えているのかも知れない。