火星年代記

SF作家レイ・ブラッドベリ氏、「人類は火星人にならなければならない」
好みで言えば、SF三大大御所のうち、一番好きなのはハインラインで、一番啓発されるのがアシモフだ。ブラッドベリは正直言って評価は落ちる。細かく論じればとてつもなく長い文章が必要になるだろうが、簡略して感想だけを言えば、彼の作品に漂う独自の哀愁を剥ぎ取れば、アメリカ合衆国の土着の歴史性を一番強く持っているのがブラッドベリであるように感じる。
多くの人は、仮にそうしたアメリカ性を指摘するのであれば、ハインラインに一番強くそれを認めるかも知れないが、私が思うに、ハインラインアメリカ性は、もっと抽象的な、もっと純化された理念であるように思う。
ブラッドベリはフォークナーのような南部的フォークロアっぽいものを感じさせる。ただしそれを直視するのではなく、サイエンスフィクションという形で、包み込んでいる。私が文学的ペーソスなるもののほとんどが嫌いなのは、多くの場合、それがリアリズムの欠如、あるいはリアリズムを直視しない厚化粧めいた糊塗であるからだ。
ブラッドベリとの類似を考える時、私が真っ先に思い浮かべるのは、ジェファーソンである。ジェファーソンはむろん文学者ではないが、彼の複雑な表情は、リアリズムを直視できなかった彼の弱さの現われであると私は考えている。
リンク先の記事に戻れば、ブラッドベリが火星人を語るに際しては、私たちは「火星年代記」を思い浮かべずにはいられず、ブラッドベリもまたそれを前提としている。
火星年代記は最終場面を提示するまでもなく、火星人となる私たちを描いた小説だからである。
あの小説を踏まえた時、あの作者がアメリカ人、つまり虐殺によって築かれた国家の国民の人間であるということ、そしてその人があの小説を書いてた人として「人類は火星人にならなければならない」ということに、おぞましさを感じずにはいられない。
彼らはそのようにしてヨーロッパ人から「アメリカ人」になったのだ。あの小説を踏まえてなお、「火星人」となることの必然を語るということは、「アメリカ人」の歴史を肯定するということだろう。
いや、肯定ならばハインラインもするかも知れない。ただ、ハインラインはそれを「選び取る」のに対して、ブラッドベリは漠としたペーソスに包んでしまうだろう。
私はその種の鈍感さをブラッドベリに強く感じていたのだと、今日、改めて気づいた。