中道とは善にも加担しないということ

最近読んだ記事で、「アイヌチベット」にも関係しそうなことを考えた。
凶悪な殺人事件 - 猿゛虎゛日記
イスラエルの蛮行が、日本や西側メディアでほとんど報道されていないよ、されたとしても、独特の言い回しで微妙に印象操作がされているよ、という話だが、それはそれとして、どうしてそういうことになったのかを考えると、やはりホロコーストの資産化が影響しているんだろうなと思う。
ホロコーストの事実はあまりにショッキング過ぎて、ユダヤ人、イスラエル国家、シオニズムを批判する時、反ユダヤ主義という文脈で解されてしまうリスクが強まったことが、および腰な姿勢の底流にあるのだと思う。
シオニズムとその成果としてのイスラエル国家の建国は、まさに中国政府が進めるチベット漢化政策に似た、侵略的植民地政策の成功例なのだが、その倫理的な問題が、その時点ではまさに直近の問題だったホロコースト反ユダヤ主義という文脈で処理されたため軽視されたのではないか。
アメリカに比較して、ヨーロッパのメディアがまだしもイスラエルに距離を置きがち、別の言い方をすれば距離を置けるある程度の自由を得ているのは、身もふたもない言い方をすれば、ヨーロッパのユダヤ人社会は第2次世界大戦後ほぼ壊滅したからではないか。
弱者の組織的な圧力が、弱者(とされるもの)の加害行為の軽視、封印につながったのではないだろうか。
id:zarudora氏は同記事の中で、

これに対して、イスラエルの「過剰な武力行使」とパレスチナ武装勢力の「テロ行為」を非難し、「双方に」攻撃の即時停止を求める声明を発表する、とか言うのが、流行の「バランス感覚」やら「中立」やら言うものなんでしょうか。

と述べていらっしゃる。これが先の記事でも指摘したような、「眼前の暴力に対して相対化を試みること」というような意味合いで非難しているのだろうとは思うけれど、そのようなものはともかく、バランス感覚そのものは重要であって、それは相対化それ自体を相対化する視点にも不可欠なものだ。
つまり、ホロコーストの被害者であるユダヤ人たちをそのまま集団としてのユダヤ人を倫理的な聖者に置き換えることによって生じた「同調圧力」「無批判性」が、イスラエル国家の暴力的傾向を許容することにつながったと考える。
ホロコーストの悲劇そのものをも、何がしらの聖化や邪悪視を伴うことなく、中立的に処理することが少なかったからこその反語的状況の出現だろう。
そうであれば、いかなるものであれ聖化したり、批判者を邪悪視する行為こそが、悲劇の原因になっていると私は考える。


チベットのことにずらして言えば、私はチベットの人たちが特段に道徳的に優れているとか、優れた論理的思考が出来るとは考えていない。歴史の反語に常に晒されてきた現代の日本人に比較すればおそらく遥かに幼稚な思考態度しか持たないだろう(そしてそれは中国人についても同じことが言えると考えている)。
チベットの独自の政治体制があった時に、原始的というか野蛮とさえいえるような状況があったというのもたぶんそうだろうと思う。
チベット人を聖化すれば、おそらくや必ずや裏切られることになるだろうし、そのことがまた別の悲劇の原因となるだろうことは容易に予想される。
だから私たちは、何者をも聖化することなく、目前の暴力をひとつひとつ静かに制止してゆくことが求められているのだ。私がid:zarudora氏の記事を読んでいて、小さな懸念を感じるのは、その部分である。

アイヌとチベットと

チベット問題との温度差をすげえ感じた - NC-15
先住民や被征服住民の問題は、ほとんどの国にあって、オンかオフかで言えば、いずれもオン。
けれども、だからこそ注意しなければならないのは「どっちもどっち」「いずこも同じ」なる相対化を行い、目前の暴力行為に沈黙をしてしまう、沈黙を強要することだ。
中国政府が行っているチベット支配は、暴力を伴わなければ為し得ないものだし、その程度は甚だしい。中国政府の成す歴史的な問題提起は、現実に中国国内で非常に抑圧的な圧政が敷かれているという状況をエクスキューズする効果を持っている。
それを考慮すれば、60年前の戦争犯罪の摘発には熱心でも、現在の抑圧に対する抗議にはそうではなく、しばしばそうした抗議や異論の声をレイシズム扱いしてこと足れりとしてきた左翼の人たちが、チベット騒乱の発生以来、右往左往するとともに信用が失墜しているのも、あたりまえといえばあたりまえである。
既に書いたとおり、歴史をひもとけば、それもせいぜいこの100年程度の歴史をひもとけば、すねに傷を持たない国や民族はほとんどいないと言っても過言ではない。
おまえだってそうだろう、おまえだってやってきたではないかと言われれば、反論できる人はよほど厚顔無恥でなければいない。


自分のことを棚にあげて、と言う。
何かを言う時、何かしら人を批判する時、人の行為を非難する時、まったく血に染まっていない無垢な手はそこにはない。もしあるとすれば、血の赤さに鈍感であるのか、汚れ仕事を他人に押し付ける、汚れそのものよりもいっそう醜悪な「純白さ」だけだ。
しかしそれでも、過去の歴史として、人類一般、生きている者すべての罪悪を、生きているがゆえに、そして生きてゆくがゆえに背負わざるを得ないことと、今この瞬間に、対話を拒み、妥協を蔑み、圧政を押し付けることとは、まったく違う。
それらはまったく違う。
まったく違うとどうしてまず言わないのか。歴史における過去の悪行を認め、それを限界がありながらもただしてゆこうとする行為と、現実の暴力に対する容認がどうして二者択一にされなければならないのか。
後者を批判する者は、前者を受けつけないレイシストであるのか。


19世紀に中国人として生きることは不幸だった。20世紀においても、あるいはそうだったかも知れない。激動なる言葉だけでは言い表せない、侵略と暴力、圧政と貧困、そのような近代史を抱える中国人にとって、国民として自分たちを見た場合、特に国際社会において「被害者」と規定してしまうことは故ないことではない。
しかしそれは決して彼らが加害者とならぬことや、あるいは善良であることを意味しない。
悪の反対者が善とは限らない。しばしば被害者は善良であるがゆえに暴力に晒されるのではなく、単に弱小であるがゆえにそうなる。チベット人も帝国を築けば周辺諸国に対して高圧的にもなろう。
第一次世界大戦後のポーランドがそうであったように。
あるいは現在の中国政府やその背後にいる中国人たちが、多くの事柄で強圧的な対応をとりたがるように。
中国政府が、すでにしばしば公式の会見でそうしているように、自らの暴力や圧政の行為を、あらゆる諸国が少なからず抱えている歴史の負の遺産と絡めて、相対化しつつ一般化することによって批判を封じようとする時に、歴史的な経緯としても、程度としても、そして喫緊の必要性においてもまったく異なっているチベットアイヌの問題を絡めて、敢えて提示する行為はどのような意味を持つのだろうか。どのような意味を持ってしまうのだろうか。
私は、今、この時に、結果として中国政府の思惑に沿う形になるid:muffdiving氏の問題提起は間違っていると思う。
これを言うことは、アイヌの問題を軽視することではない。軽視することではない、と私が今、注意を促す必要があると感じられた、まさに結果としてセット化されてしまう「相対化」を促すがゆえに、id:muffdiving氏の提起は間違っていると思うのだ。