坂の上の雲

録画していたNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」を第三回分まで先日視聴した。
いろいろと、カネがかかっているなあという出来であり、今年の大河ドラマの並外れたチープさ具合も、このドラマのせいだったのかも知れないと思った。
明治の若者たちの向上心には胸を打たれる。あの原作小説には史観的にいろいろな批判もあろうが、それでも坂の上の一条の雲を見つめてただひたすらに空へと向かって歩いたあの時代の空気はよく描けていると思う。
キャストは当代で望み得る最上の適役であろう。三顧の礼を尽くして映像化を成し遂げただけに、司馬遼太郎への義理立てからも、適当な真似はできるはずもないが、本来ならば、作品への敬意があるならば、この姿勢をNHKはあらゆるドラマで貫くべきなのである。
この作品は脚本家・野沢尚の遺作ともなるが、作品への敬意があるならば、今年の大河ドラマの脚本家など起用できるはずもない。
ところで、先日、学研が「科学」と「学習」の廃刊を決定した。
これも戦後という時代の、坂の上の雲を見つめた時代の終わりを思わせた。
私ももう自分よりも上の世代の人たちのせいにして済む年齢ではないから、今、育ってゆく若い人たちには漠としつつも、申し訳ない気持ちを抱いている。
彼らにとって未来はどのように見えているのだろうか。まだ私が少年の頃は未来は希望に輝いていた。道のりに高低はあっても、ともかくかけて行けばいずれは雲を掴める、そうした楽観主義が当然のようにあった。
今のこの国で、ますます老いてゆくばかりのこの国で、今日よりも明日がよくならないと分かってしまっているこの国で、育っていくということはいったい何を意味するのだろう。

羽毛田宮内庁長官の進退について

【小沢会見詳報】(14日夕)「30日ルールって誰がつくったの?知らないんだろ、君は」 - MSN産経ニュース
リンク先のインタビューで小沢一郎氏が言っているのはすべて筋が通っている。
30日ルールにしても、その間、天皇の日程が何も無いというならばともかく、他の行事で埋まっているならば、それを取りやめさせれば物理的な負担は増えないはずだろう。
優先順位の是非を決定するのはあくまで内閣であり、国民によって付託を受けた政府である。政府が決定した内部ルールを必要に応じて変更したり、臨時に対応するのも政府の権限のうちである。
筋論として言えば、内閣に属しながら、内閣の決定を公務員が批判するのは、問題であろう。類似のケースではこれまで、村山内閣の防衛政策を批判した宝珠山防衛施設庁長官、歴史認識をめぐって政府見解と異なる論文を提示した田母神航空幕僚長が更迭されてきた。
内容から言えば、羽毛田長官の発言も同様の規律違反行為であり、更迭されたとしても止むを得ない。
しかしながら、宮内庁長官という職責と立場の特殊さも考慮する必要がある。
宮内庁長官は内閣によって指名され、天皇によって任じられる認証官である。一般公務員とは立場が異なる。これは、大臣が、内閣の見解と異なる私見を述べることと同様のケースであり、自主性においてある程度の幅が与えられていると見るべきだろう。
また、天皇と言う地位は、「公務員」であると同時に、自由意思の大きな制約を受ける立場であり、機関であると同時に人である、しかも機関性から自由意思でもって逃れることが出来ない人であることを踏まえれば、100%機関であることを押し通してしまえば、人権問題にもなってしまう。
宮内庁長官は、個人としての天皇についても、その権利や健康を保護するために、積極的に盾となることが求められているとも言え、そうした宮内庁長官の職責という観点から見れば、羽毛田長官の発言は単に職責を果たしただけと見ることも出来る。
宝珠山防衛施設庁長官らのように単なる私見であるならば、これは明確に指揮系統からの逸脱であり、更迭は必至であろうが、羽毛田発言は逸脱とまでは言い切れない余地を残している。
現時点で小沢一郎氏が本気で羽毛田長官のくびをとろうとしているとは思わないし、仮にそうした要請があったとしても内閣は拒絶するべきだろう。
ただ、小沢発言に応じて、長官が更にあれこれ発言を重ねるのはいただけない。長官の言い分は言い分として、既にそれを踏まえてなお内閣の判断が下った以上、決定に従うのが公務員の任務であり、それが民主主義と立憲君主制を尊重するということである。
長官は以後、これについては沈黙を守るべきだろう。


[付記]
宮内庁長官を批判=鈴木宗男氏 - 時事ドットコム

新党大地鈴木宗男代表は14日夜、日本BS放送の番組に出演し、
天皇陛下習近平中国国家副主席との会見が特例的に設定されたことに
羽毛田信吾宮内庁長官が不快感を示したことについて
「尊皇精神に欠けている。陛下は(会見を)受けられたのだから、
決まった後に言うのは陛下にとんでもなく失礼だ」と批判した。

鈴木氏の言いようは、実態を見ずに理論だけでごり押しをするいささか腐儒者めいたものだ。
先の記事でも言ったように、内閣の助言と承認で行われる国事行為について、天皇には基本的には拒否権は無い。これが個人として拒否権がないことを実は必ずしも意味しないが、天皇が個人の意思を国事行為において示した瞬間に日本国の統治中枢は重大、かつ致命的な混乱に陥る。
夫婦喧嘩で言い合いをするのに、対抗手段は核兵器しか持っていないようなものだ。事実上、使えないし、使った時点で日本国は終了である。
陛下が会見を受ける受けないについて、国事行為の場合、自由意思を示す余地は無く、それを「陛下は受けたじゃないか」と言うのは、詐欺師が脅迫して書かせた契約書を振りかざすようなものである。
そうした事態を招かないよう、なおかつ穏便に意思を伝えるために長官が間に立っているだけの話であって、基本的には長官の公式発言=陛下のご意思と見るべきである。