Out of home

今、ジンバブエで白人農場主たちが政府の使嗾を受けた黒人暴徒たちに殺戮されている。
先住民族問題を語る時、

政府(主要非先住民族)>先住民族

なる構図のみが語られがちである。「先住民族の権利に関する国際連合宣言」でもこの構図を底部に置いている。つまり、アメリカ合衆国におけるネイティヴアメリカンや、オーストラリアにおけるアボリジニのように、圧倒的少数派としての先住民族、という構図がベーシックなものと認識されているわけだが、先住か非先住かという属性と、多数派と少数派なる属性の間にはまったく相関関係はない。
ジンバブエや東アフリカにおける白人や、かつての朝鮮や満州における日本人、東南アジアにおける華僑、フィジーにおけるインド系住民のように、少数派である非先住民族もむろん存在している。
多くの場合、それらはせいぜいが近世以後の帝国主義的な活動の結果であるのだが、仮に帝国主義的な活動に根源的には根ざすとしても、更に古い時代に根ざす「植民活動」による場合もあるのであり、例えば、東プロイセンやロシアにおけるドイツ系住民などはそうで、歴史時代に入って以後はむしろ彼らこそが先住民族といえなくもない、彼らを追放し土地や財産を奪ったポーランドチェコスロバキアこそが「本来の原状回復」をなすべき道義的な責務を負っているとも言えなくもないのである。


戦後、外地に移住していた日本人の多くは内地へと引き上げてきた。その過程で多くの惨劇があり、財産を彼らは失ったのだが、それは敗戦と大日本帝国の解体の結果であり、多くは「やむを得ないこと」と認識され、彼ら、元外地人たちはごく普通の日本人として吸収されていった。
それが比較的スムーズにいったのも、彼らの多くは一世か、せいぜいが二世であって、日本人としてのアイデンティティを優先して維持していたからだ。
近世以後の帝国主義的活動の結果としての植民であっても、たとえばフランスによるアルジェリア支配などは約130年が経過しており、その間、おおよそ5世代から7世代が経過している。
130年なる期間は、今から言えば日本では幕末明治の頃にあたり、祖父の祖父の頃からそこに居住していれば、そこ以外に故郷はないと感じるはずだ。
アルジェリアが独立してからも少なからぬフランス系住民がアルジェリアこそが故郷であるとしてそこに踏みとどまったが、数年のうちに2000名近くが行方不明になるなど、迫害が行われ結果として「民族浄化」が完了した。
親の因果が子に報い、ということは近代的な国家では封建的な思想とされ、否定されるべきものであるが、民族自決の国際秩序や、先住民族にのみ優先権を与えるような国際的な正義感覚のもとでは、親どころか7世代も前の祖先の「罪業」によって、時に生命さえも奪われる現象が生じる。
果たして、それが正義なのだろうか。


と言って、彼ら帝国主義の末裔が帝国主義既得権益を持っていない、ということではない。
イギリス人やオーストラリア人の若者は、世界各地で英語教師をしながら世界放浪の時期を過ごす者が多数存在するが、そうしたライフスタイルが可能なのは、彼らが英語国民であり、英語が帝国主義の結果として、国際語だからだ。
母語によって、国際的な論文が書け、外交も行える彼らは、そうではない人たちよりは遥かに有利な立場にある。
オーストラリアの豊富な地下資源によって豊かな生活を享受しているオーストラリアの白人たちは、帝国主義の恩恵を直接受けているとも言える。
先住民族が少数派である場合でも、ジンバブエでは、白人の保護と引き換えに黒人政権が樹立されて、国名もローデシアからジンバブエに代わったが、大規模農場主、富裕層のほとんどは白人によって占められ続けた。
現在のジンバブエにおける騒乱と殺戮は、経済運営に行き詰った政権による国民の不平逸らしという意味合いが強いが、悪意ある政権にそのように利用されてしまう、白人による帝国主義的構造自体は実在していたわけで、一方で人種的、侵略的な差別構造によって権益を享受しながら、あたりまえのごく普通の「一般的な国民」のようなふりをする彼ら白人住民にまったくの欺瞞がなかったとも言えない。
たとえ彼らの家系が10世代以上も前からそこに住んでいるのだとしても。


いずれにせよ、歴史の針は元には戻らないわけで、ドイツの敗戦によって多数のドイツ系住民が東プロイセンから追放されたように、たまに戦争や殺戮によって、多くの犠牲を強いながら「最終的解決」がなされることもあるが、今、あるいはこれから先に、そのような悲劇を強いる民族浄化を決して許してはならないのだとすれば、帝国主義の時代も通過した結果としての現在の世界それ自体をまずは肯定しなければならない。
収斂してゆくべき先にあるのは、より普遍的な文明感覚、人権思想、その表れとしての、非民族的な、抽象的な近代国家である。
もちろん、国内においては、白人や華僑が経済利権を独占するような差別的な構造を解体、もしくは緩和する試みも必要で、国際社会にあっては、先進国にのみ有利な状況になっていないか、歴史的な権益が重視され過ぎていないかどうか等々の「見直し」も必要だろう。
しかし先住民族の権利を、無批判に肯定するのは、先住民族や非先住民族を個人ではなく、塊として扱うことで、近代的な国家においては、できるだけ避けるべき態度だと私は思う。


中国の場合は、そもそもそうした人種的、民族的な対立を昇華してゆくべき国家が極端に抑圧的であることに問題があるのであって、より普遍的な文明感覚を欠いているところに根本的な原因がある。
そして中国がそのような国であることは、今に始まったことではなく、絶交するのは愚かしいことだが、批判や説得によってより穏健な態度をとるよう日本の左翼が促してこなかったとすればやはりそれは批判されるべき無作為だと私は思う。