アイヌ問題を政治利用しているのは誰か

id:kurotokage氏がアイヌとチベットとについて、

[思想][社会]勘違いしている。問題とされているのはそれぞれに対する関心の強さではなく、相反する姿勢。アイヌについて黙っていることを批判している人はいない(はず)。

なるブックマークコメントをつけた。
私にはかの人のそうした発想自体がとても奇妙なものに思える。かの人は、アイヌチベットを同列に見ているようだが(そうでなければ、両者の姿勢に対する態度の違いを「相反する」とは評せないはずだ)、根本的に異なる点があり、チベットが現実に政府によって暴力と弾圧を被っているのに対し、アイヌはそうではないということ。
アイヌは望むのであれば、彼らの考える地位向上活動や啓蒙運動を行うことが出来るし、独立運動でさえ可能である。日本におけるアイヌの問題が、国民国家に一般的に存在する歴史的な同化政策の問題であるのに対し、チベットの問題は暴力的な統治行為の問題である。
これこそ私が懸念する、「相対化」の一例とも言うべき態度であり、チベット騒乱とともににわかにクローズアップされたアイヌの問題を論じる意図がいずれにあるのか、非常に懐疑的に捉えざるを得ない。
チベット騒乱を過小評価し、その問題に対するこれまでの関与の不在を隠そうとするが如き態度である。
チベットの暴力的な状況は、ここにきて一気に沸点に達しているが、昨日今日の問題ではなく、まさしく喫緊の問題として、ここ十年来あり続けてきた。
それが中華人民共和国の政治体制の問題であると同時に、この問題に関する漢民族の非常に冷淡な精神の問題でもあった。
いま、id:kurotokage氏が、「相反する姿勢」を指摘するのであれば、60年前の歴史問題に対する中国人の態度と現在の状況の結果の矛盾や、一方で中国政府の、人権思想や戦争犯罪をただす正義を基盤にした歴史的な見解に加担しながら、どうしてそれを支持する人たちがみすみすとチベットや中国国内の状況やレイシズムの糾弾に非常に不熱心であり続けたのかを問うべきだろう。
氏の態度は、まったく局面もおかれた状況も異なるアイヌチベットを同列に扱うことで、現実の暴力とそれに言及しない倫理的な怠慢を覆い隠すエクスキュースでしかないのである。


今回のチベット騒乱についての、もっぱら右派(とされる人たちや団体)の熱心さに、根本的に中国への嫌悪と不信があるのは間違いないだろう。これは憶測に過ぎないが、おそらくそうだろうと思う。
しかし重要なのは、そこで言われるような暴力的な状況が実際にあるかどうかであり、そのような暴力的な状況に対面した時にどのようにそれぞれが処理するのかという倫理的な基準である。
もしチベット問題に突出して熱心な右派の態度を批判するのであれば、ではどうして左派はこれまでイラクの問題やパレスチナ問題に熱心で、中国や北朝鮮の人権状況、韓国のメディアでときおりみられるレイシズムに不熱心であったのかを自らに問わないのだろうか。
結局中国が嫌いなだけじゃないかというのであれば、じゃああなたたちは結局アメリカや日本が嫌いなだけじゃないかと言い返されることをどうして予想しないのだろう。
アイヌという国内問題にまず言及せずに外国である中国の問題に言及する不誠実さを言うのであれば、ではどうして、左派が外国であるイラクパレスチナの状況に言及することを問題視しないのだろうか。
私は、彼らの倫理的のみならず思考的な不徹底さに正直あきれかえる思いである。