自称中道と笑う人たち

中道や中立とはべつに真ん中に立つとかそういう意味ではなくて、それぞれの要素をそれぞれで分解して、まとめて提示しない(パッケージングしない)ということではないかと思うけれど、さて、自称中道という言葉をよく用いている人の言動を見ていると、分解した要素において一貫性に欠ける部分があっても、統合的に左翼的であるならば、それは受容されるというような態度があるようだ。
例えば、以前、男女平等を言う人で、助産婦には女性しかなれないことについて女権拡張、あるいは保全の視点からか、擁護する、すくなくとも批判はしない人がいたのだが、それは少なくとも男女平等ではない。それについて相当程度の合理的なエクスキュースがあるならばともかく、男女平等という基準を一貫的に示すのであれば、その要素からのみ評価するのが中道というものではないかと考えている。
逆に言えば、自称中道と言いたがる人たちの言動を見ていると、なにかしらの基準(大義名分)を掲げつつ、自らそこから離れることについては別の基準で統合的に受容するということがしばしばあるようだ。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080328/p1
先にリンクした記事では、id:hokusyu氏は愛国心教育(とやら)の不確実性と恣意性を指摘している。それについては私も同意だが、愛国心教育の是非自体は見解が分かれるかも知れない。おそらく私たちが共通して考える、「本来あるべき、唯一あり得る愛国主義」が憲法に根ざす(憲法と言う外形かその理念型かで見解が分かれるとしても)ものであるべきだとしても、憲法秩序が厳然として存在しているとして、それを支持するかどうかは個人の内面の自由に委ねられるべきで、そこの部分に憲法秩序が働きかけることが果たして妥当かどうかというと私はそうは考えない。
個人のそれぞれの内面の自由の表徴としての意見の集合体に憲法秩序の妥当性が置かれるのだとしたら、憲法秩序それ自体が個人の内面に働きかけることは、ある種のマッチポンプというしかないからである。
右派の言う愛国心教育憲法秩序それ自体でさえないのだから、マッチポンプでさえない、はっきりと違憲と言い得るものである。
しかし憲法秩序に則った、積極的な内面への働きかけでさえ、問題がないとは言えない。憲法秩序に可能であるのは(可能であると捉えられるべきなのは)ただ憲法秩序として「在る」ことのみである。
最大限許容して、憲法秩序のマッチポンプ型の干渉までは場合によっては「やむを得ないもの」として許容できるとしても、公務員という憲法秩序内部にあるものが憲法秩序の限界を超えて生徒の内面に働きかけることは是とは出来ない。
この部分をおそらくid:hokusyu氏は「非政治的な教育があると思ってはいけません。」という見解を示して救済しているのだが、ここは氏の提示した憲法秩序が公共の本質なるスタンスとはしごく矛盾する態度だと言うしかない。
しばしば自称中道という言葉で誰かしらを攻撃したがる人の傾向として、この種の論理的矛盾を内部に抱えつつ、その矛盾を許容せんがためになされていることが多いように思う。
この場合は、教師側による憲法秩序から踏み込んだ生徒の内面の自由への干渉という問題を不問に付す(そうしたことがあったとすればの話だが)ために、憲法秩序それ自体とは異なる価値判断を押し付けること自体は肯定しているのである。
もちろん、愛国心教育の恣意的な価値判断を非難するのであればこれは矛盾した姿勢、倫理的一貫性に欠ける態度であるのだが、そうではないというのであれば何がしらの見解を伺いたいものだ。