id:mojimoji氏への反論

id:mojimoji氏からの反論を読んだ。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080330/p1
id:mojimoji氏に誤解があるとすれば、チベットの問題にアイヌをぶつけることを、単に並立的な相殺とは私は考えていない点にある。
チベットの問題とアイヌの問題に決して無視できない違いがある点は、チベットがまさしく恒常的な弾圧、拷問、強制的な同化に晒されているのに対して、アイヌは決してそうではないということだ。
緊急性や暴力の明白さにおいてかくも景色の違う問題を同列に扱う恣意性をまずは批判している。
すべてが問題だと言う時、関わりにおいても、緊急性においても、救出の可能性においても、まったく異なる問題を同列に扱う姿勢は既にそこで問題があると言っている。
ごく広く、たとえば抽象的な原罪のごときものを抱えていない人はいないと言えるとしよう。しかし人を殺す人と、不機嫌から他人にあたりちらすことにはやはり遥かな距離があるのだ。
もちろん、人を殺す人を糾弾せず、糾弾したとしても非常にささやかにしかしない一方、不機嫌から他人にあたりちらす人をことさら糾弾するのは、単に関与の一貫性からも批判され得るが、評価においても妥当さを欠く。
普遍における程度の差異を見ずに、極めて過小な類似点によって普遍に落とし込むことは、実際には基準としての普遍を無意味化する。相対化のカオスである。
氏はコミットの不在について、非常に寛容であるように思った。
あらゆる問題において人はコミットすることが出来ないのはそのとおりだし、関心や必要から、なんらかに集中せざるを得ないこともあるのもそのとおりである。
しかし問われているのは、周辺的とも言える関連におけるコミットの不在である。中国は現に、19世紀から20世紀にかけての歴史において被害者となることが多かったのだから、過去の歴史において日本の戦争犯罪を糾弾するのは当然である。しかしそれが普遍性を持つためには、価値判断の問題は置くとして、戦争犯罪やそれに類する行為を批判することにまで拡大してゆかなければならないはずである。
そして中国による暴虐と圧政はチベットにおいて昨日今日ではなくここ何十年来もの現象であったのだから、現実に進行している暴虐を止める緊急性においては、最低限、チベットについては中国による戦争犯罪の糾弾に同意するのであれば同時に同様の熱心さでもってなされるべきだったが、それが果たしてなされてきたのであろうかということを問うている。
もしそれがなされなければ、結果として浮上するのは、戦争犯罪を糾弾し過去を反省し、今後起こりえることを防止してゆくことではなく、「中国に対する戦争犯罪を糾弾する」ことでしかなくなる。
もちろん中国に対する戦争犯罪も糾弾されるべきだが、同時に中国による戦争犯罪も糾弾されなければならない。そして現在、より濃厚に暴虐を行っているのは中国である。戦争犯罪を糾弾するのであれば、中国が決してその被告席に坐らないということはあり得ない。
イスラエルの暴虐が過小にしか報道されず、報道されていたとしてもバイアスがかかっており、一方、アラブ人によるイスラエルへの報復のみがテロと認識される状況が、結果としてイスラエルが暴虐を行うフリーハンドを与えているのに近似したことが、中国に関する言説でも起きていると考えている。
そのような状況下で、「中国に対する戦争犯罪を糾弾する」行為のみを行うことは皮肉なことに戦争犯罪を増大させる効果しかもたらさないのである。
さて、残念ながら私はいわゆる「はてな左翼」とも称される人たちを倫理的にはまったく信用していないが、その知性の根本のところを疑ってはいない。そのようなこともあらかじめ理解できないような人たちとは思っていないのだ。
しかしそれはなおのこと、怒りと失望を生じさせる。
id:mojimoji氏は言う。

チベット問題以外においては、積極的に被抑圧者(と少なくとも想定した上で事実の確認がされるべき人たち)の方を叩き続けてきたからだ。「沈黙してた」じゃなくて、「実際に非難してきた」ということが反問されているはずだ。

私は被抑圧者を叩いてきた自覚はまったくないがこれは誰のことを言っているのだろう。仮にid:mojimoji氏の言うことが事実だとしても、それで、コミットの不在という問題が解消されるわけではない。しかも私は氏の言っていることは事実とは思わない。
サッカーアジア杯で示されたようなレイシズムの態度が日本で行われていれば、おそらく私もそうだが、はてな左翼の人たちも一致して批判しただろう。ひとりの少女が重態に陥った重大な食物汚染において事実を解明すべき中国があのような木で鼻をくくったような態度を日本の当局がとっていれば、間違いなく轟々たる非難が浴びせかけられていたはずだ。しかしそのような言説に対して、嫌中というような断定から相対化される試みがしばしばされてきたのをid:mojimoji氏も必ずや目の当たりにしてきたはずだ。
今、このチベット騒乱に対する対応でさえ、そのようになされていることは珍しい例ではない。
被抑圧者を叩いてきたから非難されていたのではない。中国を叩いていたから非難されていたのだ。
他人の内面を想像したがる人は多い。私も時に気づかずにそれをする場合もあるが、気づいた時には修正するようにしている。
内面に憶測をつけてレッテルを貼るのを嫌う人たちが、しばしばその敵対者たちにはそれをする。
中国を好いていようが嫌っていようが他人の内面などどのみち証明不能なのだから、それを言うこと自体不毛だ。ましてそれをもって解とするなど。
いまさらコミットの不在を、一般的な「すべてにアプローチするなど不可能」論におとしめないでいただきたいものだ。