人間の価値

ローマで円形の、いわゆる硬貨が出始めるのはおおよそ紀元前3世紀の初めくらい、共和政期の中頃だろうか。
それ以前は aes rude と呼ばれる棒状の銅が貨幣として流通していた。側面に何らかの文様装飾が施されていることが多いので、まったくのマテリアルというわけではないけれど、これは加工用素材としての銅の交換価値がそのまま貨幣に移行していったもの。
状態がそれほど良くないものであれば紀元前4世紀頃のものでも数万円で購入できる。
交換価値は、物そのものに生じるのではなく、それに価値を見出す人たちの間で流通性が高まれば生じる。金銀銅などの金属が貨幣の媒体として利用されることは多いが、これは結果的にそこに流通性が生じたと言うことであって、別に金属貨幣でなければならないという理由はないわけである。
「みんなが欲しがるから価値がある」のであって、「価値があるからみんなが欲しがる」わけではない。
自動車もなく石油に依存しない社会では、石油は時々地下から湧き出して農地を駄目にしてしまう厄介な黒い水という以上の「意味」はないわけで、石油に何らかの価値を見出すと言うことは、石油に価値を見出す社会の構造を強化するということである。

貨幣には、価値保全機能、価値評価機能、交換機能という3つの主要な機能があって、端的に言えばこれはそれにどれだけ流通性があるかを決めるものである。
従って、二人以上の人の間で何らかのやり取りがなされる場合、それは貨幣に置き換えることが出来る。持って生まれた容姿を活かして、モデルを職業とし、年収二千万円を稼いでいるならば、その美貌は二千万円に置き換えることが出来る。
ただしそれもその美貌にそれだけの価値を見出す人がいるから価値が生じるのであって、盲目の人ばかりの社会にあっては容貌の価値の流通性はがくんと低下する。
言うなればこの世界において「交換」という現象が生じるものについては需給法則の専制支配から逃れられないのであり、人間もまた例外ではない。
しかし需給法則そのものは、そこに需給法則が働いていると外から見て見出すことが出来るものであり、この、外から見るということが、「逃れる」ということであり、構造から抜け出すということである。
私はそこにだけかろうじて、この世界を生きてゆく上でたどりつける自由があると思っている。

二親が揃っていない、何らかの欠落があるとされた子供を「かわいそうな子供」と規定することが、それが同情心から出たものであっても、時にその子供自身の心を打ち砕いてしまうのは、ある事象について、「かわいそう」という意味を与えてしまう「呪い」がそこに生じるからである。
絶対的な水準で言えば貧乏であっても、周囲がみな貧乏であればさほど苦にならないというのも、貧乏である者としての流通性が生じないためにそこに特別な「意味」が付与されないからである。
二親が揃っていない等々の環境は、それ自体はあくまで環境の話であって、そこに幸福とか不幸を見出すのは、そこに価値を見出すという構造が流通性を持っているからである。
つまりある子供も何らかの構造にのっとって「かわいそうな子供」と定義することによって、その価値構造から生じるヒエラルヒーにおいて、その子供を「かわいそうな子供」として流通させることになる。
それはあらかじめ与えられているべき愛の市場価値において、より低価値の存在であるとその子供を規定することであって、ある対象をかわいそうな子供と見なす自分はその子供ではないという事実によって高価値を付与される。
おまえは可哀想な子供だと言うことによって、価値のない、流通性のない人間という属性をその子供に縫い付けるのである。

価値が相対的なものである、それは人間の関係において避け難い現象ではあるけれど、私のこの価値、私が生きているというこの絶対的な事実は、相対的な流通性とは関係がないところに存在しているのであり、そこにしか人が生きてゆく上で自由は存在しない。
だから私は思うのだ。
その傷ついた自分を握り締めること、握り締め続けることもまた、「可哀想であった自分」を強化するものであり、世間の流通性に自らを委ねてしまうものではないか、と。
起きた事実と意味を切り離すこと、シニフィアンシニフィエを切り離すこと、「呪い」から自分を解放すること。
ただ私はたったひとりでこの世界に生まれ、たったひとりでいつか消えてゆく。
それは荒野の景色であるかも知れない。あるいは残忍なことであるかも知れない。人としての情愛を殺すことであるかも知れない。
けれどもこの世界にもし自由というものがあるとしたならば、自由とはそういうことだ。