ヨーロッパの国の数

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081106/plc0811062114015-n1.htm

 大阪府橋下徹知事が教育改革のブレーンと位置づける府教育委員の陰山英男氏(立命館小学校副校長)らが6日、大阪市内で開かれた小中学校長対象の研修会で講演し、「それでも教育のプロですか。子供に申し訳ないと思いませんか」と厳しい“喝”を入れた。

 研修会は、全国学力テストの成績が2年連続で低迷したことを受け府教育委員会が開催。府教育委員として陰山氏のほか、小河(おごう)勝氏(大阪樟蔭女子大非常勤講師)、府特別顧問の藤原和博氏(東京都杉並区立和田中学校前校長)が参加し、校長、教頭ら約950人が出席した。

 講演で陰山氏は、中学校の地理で教えているヨーロッパの国の数を質問。大半の参加者が間違えると、「だからダメなんです。プロたる教師がそんなことを知らずして世の中がまともに動くはずがない」と語気を強めた。

中学校では各教科ごとに専門制になっているので、社会科の教師が答えられないのはまずいと思うが、それ以外ならばそう目くじらをたてるほどのことでもないと思う。
国の定義がどうしたという意見もあるだろうが、「中学校の地理で教えている」と書かれているので、定義の問題は差しあたって無い。
自分たちが教えていることも知らないのであれば、それは批判されてもやむを得ないだろう。
ヨーロッパの国の数が問題になるのは、それが欧州連合の範囲、米露対立の問題、異文明間の融和の問題と関わってくるからだ。
コーカサスを中心に確かに定義の問題はあるが、なぜそれが問題として生じているのかまでを含めて教えるのが教師の役割だと思う。
つまり、ヨーロッパの国の数は単なる知識ではなく、地理と歴史にあって、問題意識を複合的に持ち、それを生徒に咀嚼して与えようとするならば、わざわざ覚えるものではなく、覚えてしまうものなのだ。
ここで問題として問われているのは、単なる知識の有無ではなく、教育における姿勢と教師のもって生まれた資質の問題である。
それを蔭山氏はそれでもプロかと表現したのだろうが、その意味では教師の大半はプロには値しない。日本の他の殆どの組織と同様である。
アベレージとして無能であり、資質において充分に満足できるものではない。
しかし公教育とはそういうものだと思う。マスの需要を満たすにはマスで供給するしかなく、それは個々人を綿密に調査、監督して、「プロ以外は落とす」というスタンスでは達成されない。
HACCP の手法と同様に、管理点を定めて(資格試験など)、それを通過すればよしとするしかない。
合格以外は不合格、ではなく、不合格以外は合格、でなければならない。
司法試験ほどの狭き門でもない教職員試験にあって、期待できる人材の水準にもおのずと限度がある。
蔭山氏の役割が、現実を知った上で、一定の水準を維持するために敢えて高い水準を提示しているのだとすれば理解できなくもないが、もしオーガナイザーとして言っているのであれば、教師個々人の「意識」に期待するなど無意味に近い。
「意識」に期待せずに自律的なメカニズムを構築することがオーガナイズするということだからだ。
蔭山氏が提示した問題意識を問題意識として捉えられるような人であれば、そもそも叱咤する必要が無いだろう。捉えられない人ならば、叱咤したところで感情的に反発するだけだから、言うだけ無駄である。無能の人であっても、人は自らの無能や怠惰を見たがらないものだから。
本来、意識の高い人であっても、淀んだ組織の中にあっては日々の業務に追われてモチベーションを維持するのは難しい。そうした人であれば、こうした機会に改めて「気を引き締める」という効果はあるかも知れない。
私が今回の蔭山氏の講演に効果を見出すとすれば、その程度の微々たる効能くらいだが、教師のプロを求めるのは現実的な策ではないと指摘しつつも、教師がプロの水準であって悪いと言うことはないので、社会科の教師がヨーロッパの国の数を即答できないことをどう思うかと聞かれれば、無様であると思う、とは言っておく。
現実社会は多くの無様を内包して成り立っているのだが、無様かそうではないかと聞かれれば無様はやはり無様である。