兵隊さんは無学で寡黙であればいい

在特会の面々に低学歴者が多いことなどを鑑みて、鼻持ちならない言い方をすればある種のノブレス・オブリージュとして、知識人はそれでも民衆の心情に配慮をして説得を試みなければならない、と私は言ってきたのだが、これは自分自身にも言い聞かせてきたことであって、自分の中に大衆を軽侮する気持ちがあるのを自覚すればこそ、である。
私の父は貧しい生まれだったし(父が頑張ったので、私自身はそうでもない)、父系の親戚の中では大卒は珍しい。中学の友だちの中には、中卒で左官をやっている者もいる。
私にとって大衆を軽侮するということは、抽象的な概念ではなくて、具体的な顔を持つ現実の個人を軽侮するということだ。人として、出来ない。
しかしそういう縛りがもしなければ、親戚がみな東大卒であったり、私立の学校を出ていれば、たぶん私は遠慮なく、大衆を見下していただろう。そういう傲慢さや冷淡さが自分の中に確かにある。
しかし自分や知識人が、ノブレス・オブリージュとして、大衆の「言っていること」のみならずその感情にまで寄り添う義務があると主張することもまた、傲慢さのひとつの表れではある。つまりは大人が子供に対する態度と同じだからである。
ただ、少年であっても人を殺めることは出来る。
この頃、考えているのは、知的優位が仮に知識人にあったとしても、物理的な優位がそれに伴うほどに無い時に、融和的な態度だけでは限界があるのではないかということだ。
在特会の暴力が、彼らの突出であるのか、日本社会全体の体質のエッジであるのかについてはここでは述べない。いずれに立とうとも浮かび上がるのは、これまで日本社会では考えにくかった排外主義に基づく物理的な暴力が表面化しているという最近の特殊な事情である。
既に多くの人たちが指摘しているが、このこと自体は、高度経済成長とその残滓である安定成長の時代が終焉し、「成長がすべてを癒す」ことが不可能になったことに由来しているが、再び成長路線を構築することがほぼ不可能である以上、過激化するだろう物理的暴力に対して、知識人側もこれまでのように融和的と言うか、説得的な態度でいることの限界に直面しているのではないだろうか。
かつて文化庁長官の三浦朱門は「できん者はできんままで結構」と言った。
麻生太郎前首相は義務教育における数学教育の必要について疑問を呈したこともあった。
こうした発言は知識人側からの大衆侮蔑と言うよりは、もっと経済構造に根ざしたものだろうが、結果として、知識人たちも表面的にはこれと同様のメンタリティを露呈しなければならない局面が今後は考えられる。
右翼左翼の対立というよりは、オルテガ的な対立構造の方が深刻化するだろう。
もちろん、民主主義国家にあっては民衆の支持なくいかなる政治体制も存続できないから、知識人が主体的に大衆を排除するとしてもそれは「民意」の名においてなされる必要がある。
問題はそこで出現する民主集中制が、法の支配を内包したノブレス・オブリージュを踏まえているかどうかだ。