見捨てられるアメリカ

ブッシュ政権で膨らんだアメリカの財政赤字は、それ以前の国債発行量に匹敵するほどの新規国債ブッシュ政権一代で発行することによって賄われている。
政府・日銀による米国債保有高は急増した後、その後、微減に転じているが、この間、米国債の最大の購入者であった日本に匹敵し、それを越える買い手として中国が急速に台頭している。
この構造がある限り、アメリカは決して日中を敵とすることは出来ない。アメリカの外交状況は、非常に大きな制約を受けていて、脆弱である。
状況支配力が無い時に、「強いられる妥協」をあたかも「選び取った妥協」であるかのように見せかけるのも外交の常であるが、アメリカの対中政策もまさにそれになりつつある。
米中の正面衝突というような局面でもない限り、これから更に増えるであろう「超大国中国」のハラスメントにアメリカには向き合う力がない。
対中バランシング外交は、アメリカの無力を前提として構築されるべきで、日米同盟の一体性を所与のものとして考慮するにはアメリカは弱体化し過ぎた。日米同盟の重要性を、ほとんど神聖視するレアルポリティーク派は既に現実から裏切られつつある。
アメリカの内部にも様々な立場、党派はあるが、結局のところその力の限度を中国に見極められている以上、中国の挑戦に対して強く出られないのは同じことである。
東アジア共同体構想は当面の実現性はともかくとして、もうひとつの方向性としてはさほど非現実的なものでもないのである。バランシングが不可能であるならば、バンドワゴンに切り替えなければならないからだ。
田中宇氏は、「隠れ多極主義」なる概念と語を用いて、「アメリカがアメリカの国益にプライオリティを置かずに経済・外交政策を構築している」可能性を指摘している。
多くは陰謀論の類として一笑に付されているが、そのような意図があるかどうかはともかくとして、そのように見える実態があるのは現実である。
その原因を、国際ユダヤ人のような陰謀論めいた主体の意図に見出すのか、あるいは単にアメリカにおける「外交政策の不在」に見出すのかどうか、私としては即座に「隠れ多極主義」の存在を認める気にはなれないが、もしアメリカ外交に合理性があるならば、そうした存在を想定しなければ説明がつかないとは思っている。
私の結論は、実はアメリカ外交には合理性はないのだ、というものだが。
ソ連崩壊後、東アジア、東南アジアの各国の関係性の意味はまったく異なったものになったが、本来、積極的にそこを埋めるべきだったアメリカ外交の不在が、もう、20年も続き、各国はもはやそれをデフォルトなものと見なさざるを得ない状況にある。
対中バランシングの中核に日米同盟を置くのは、はっきり言うならば、アメリカが信用ならないために危険である。
20年間の状況を踏まえて、私が強く感じるのは、アメリカは信用ならないということで、その信用は今後ますます低下するだろう状況にある。
日米同盟を中核に置いた従来型の中国封じ込め派はどうしてアメリカの関与を所与の条件として想定できるのか、説明する必要があるだろう。
20年間の無為を通して、アメリカはこの地域で見捨てられつつあるし、それがはっきりとするならば積極的に見捨てなければならないかも知れない。
鳩山内閣の外交における歴史的な意味とは、つまりはそういうことである。