少子化対策の非人道性

私の思想信条を大雑把に言い表すならば、リバタリアニズム思想が最も近い。ただし経済政策的にはすでにリバタリアンとは言えないと自覚している。
自由を巡る問題では、わりあい徹底したウルトラで、そういう立場から言えば、少子化対策には、法の下の平等を棄損する、個人の自由を抑圧する危険が孕んでいるので、あくまで私個人の気持ちで言えば、やらずに済むならばそれに越したことはないと思っている。
少子化対策と言うのは、基本的には、親に対する支援であるわけだ。子を産み育てるのは親なのだから、子の利益ではなく、親が利益を得ない限り少子化対策としては効果がない。
親と言う属性を優遇するということは、親以外の人たちから負担を求めるということでもある。
親になる/ならないことが純粋に選択の問題であるならば、「不利益を被る選択」に自己責任を認めることも可能だが、実際にはそうではない。
男女の性差もあれば、性淘汰も生物である以上、厳然としてある。医学的な理由から親となれない人ももちろん少なからずいる。
仮に親となることをポジティヴな「権利」と捉えれば、そうなるには「障害」を負っている弱者に、選択肢を与えないまま負担を押し付ける、逆進的な抑圧を少子化対策は作り出してしまう危険がある。
共同体にとって少子化対策が必要かどうかはともかくとして、少子化対策を施すことにあまり心躍らないのはそれが理由である。
私はもうひとつの選択肢として移民受け入れをかねてより推しているが、実際には人口縮小危機において、少子化対策と移民受け入れは二者択一ではなく並行して行われている例がほとんどである。
出生率が文化的な拘束を受けるのは確かなことで、出生率が高い地域から低い地域に移民したとしても、世代を重ねていないうちは、出生率が平均よりは高くなる傾向があると考えられる。
私がフランスやスウェーデン社会保障政策による出生率向上を完全に信用していないのはまさにこの点であって、エスニックな要素を統計的に処理していないからである(それをするのは政治的に難しくはあるが)。
つまりいわゆる少子化対策のみを行ったとして、負担ばかりが増えて所期の目的を達成できない、出生率が1.2%から1.5%になるならば「改善」ではあるが、焼け石に水なのは同じことである。
それならば生物的弱者に負担を強いてまで、法の下の平等を一部、抑圧してまで、やる意味があるのかどうかを疑っている。
つまり人口縮小危機に対処するには、おそらく少子化対策だけでは不充分で、移民受け入れを並行して行わなければ、余り意味が無いものになるだろう。