死刑執行のサボタージュについて

先日の参院選で落選した千葉法相については、就任以来一度も死刑執行の署名を行っていないことに対して批判が集まっている。かつて、自民党政権においても、信教上の信念を理由として死刑執行を署名しない法務大臣がいたが、私はそれについては批判した。
千葉法相の行為(と言うよりは行為の意図的な不在)についてはどのように評価するのか、必ずしも考えがまとまっていない。
法解釈の最高の権限は司法にあり、最高裁にある。死刑判決は被告当人が積極的に死刑を望むのではない限り、まず間違いなく上告審までいくので、日本の法解釈では死刑は合法という認識にたっている。
法源憲法にまで求めたとしても、死刑の合法性は揺るがず、行政府としては当然、司法の判断に基づいて刑を執行しなければならない。
私は死刑廃止論者だが、仮に私が法務大臣であれば、機関として刑を当然執行するだろう。つまりそれは憲法を更に踏み込んでの法的正当性を模索する必要を死刑については認めていないからであって、私が千葉法相の立場であれば議員として(今回、落選したわけだが)死刑廃止を推進すると同時に、法務大臣としては死刑を執行するだろう。
機関としての立場と、個人の思想信条は基本的には区分されなければならない。
しかし死刑についてはそれだけでは割り切れない、複雑な飲み込み難さがある。
第一に憲法よりも更にメタな法源となるべき基本的人権に反するのではないのかということ。
第二に冤罪であった場合の補償が「難しい」ではなく「原理的に不可能」であること。
第三に世界的に死刑執行を事実上行わないことによって、死刑廃止化している国があるということ。
宗教上の信条を理由として法務大臣に課せられた執行義務を果たさないのは政教分離の明確な違反行為であるが、基本的人権から敷衍してサボタージュすることは、同様の明確さをもって違反であるとは断定できない。
現代においては「人道に対する罪」の概念もある以上、手続き的な法治を行わないことが法の支配に適うことはあり得るからである。
千葉法相の場合は、この意味における正当化が可能であるかも知れない、とは思う。
もちろん最善なのは刑法が改正されて、死刑が法律として廃止されることである。
次善であるのは、死刑の違法性について司法判断が下されることである。
私には死刑の持つ、根本的な違法性についての確信がある。この確信がある時に、最善と次善の道がないからと言って、手続き的な合法性に思考停止的に身をゆだねるのが果たして法の支配に適うのかどうか、その点で大きな揺らぎがある。
実際には法務大臣ではない私はその立場にあってシミュレートしてみて、手続き的合法性を否定するまでには至っていないのだが、実際に法務大臣であったならば、どう判断するかはこれはもうその時になってみなければ自分でもこうだとは言い切れない。
おそらくその逡巡が千葉法相にもあり、ぎりぎりのところで法の支配における法務大臣として判断したのだろうと私は思う。
私は彼女のその判断については、私ならば現時点ではそうした行動はとらないだろうとは言うにしても、批判をする気にはなれない。それもまた、法務大臣としての態度だからである。少なくとも彼女はここしばらくの歴代の法務大臣のうち、もっとも誠実にその職務と意味について向き合った人物であると思う。
法務とはそのような逡巡を必ず内包している職務なのである。迷わない人間、人間としての判断をしない人間は法務大臣として不適格である。
先進国の多くで死刑が廃止され、少なくとも事実上の執行が停止されている状況で、日本がそこまでゆく見通しはまったくたっていない。殺せ殺せという民意は非常に強く、民意に委ねれば私たちはこれからも殺し続けるしかない。
突きつけられている問題が民意の多数によって特定の人を殺すことが果たして法の支配に適うのかということを理解している人はごく少ない。それを理解する人が多数を占める状況は少なくとも日本ではしばらくはないだろう。
それを理解している人たちに問われているのは、理解していてなお、手続き的合法性に盲目的に身をゆだねるのが果たして正しいことなのかどうか、それぞれが血肉の中から答えを削りださなければならないということである。