知る権利を揺るがす菅内閣の判断

玄倉川の岸辺さんからお返事の記事をいただいた。早速のレスポンスありがとうございます。
前記事で私は「羽毛田宮内庁長官発言問題」と「sengoku38問題」を比較して、その評価の基準の一貫性を問題にしたのだが、そのふたつの事件の評価については玄倉川さんと私のそれぞれの意見は鏡のように逆になっているのが面白い。
私が問題にしているのは慣例を打ち破ることの是非ではなく、そうするだけの基盤となる根拠である。それともうひとつ、当該人物の立場である。
羽毛田長官は後になって一言漏らしただけではなく(それでさえ問題ではあるが)、もっと積極的に政治的な場面において発言を行っていた。彼が行政に所属し、外交場面における天皇の利用と判断は内閣に負うことを踏まえれば、そもそも天皇を外交的に誰と会わせるか、いつ会わせるか、あるいは会わせないかは完全に内閣の判断に依るべきであり、それ以外の判断があってはならない。
羽毛田長官が個人としての信念から発言をしたいというならば、当然、職を辞すのは当たり前だが(しかし彼は職を辞していない)、問題はそうした個人的な信念、覚悟の問題ではなく、完全に指揮系統の問題である。
対して、sengoku33 のケースでは主権者である国民の知る権利、民主主義国家の原理原則の問題が関わってくる。私としては、天皇個人のスケジュールをかくも重大視しながら、国民の知る権利、民主主義国家の原理原則の問題を軽視する(そのように見える)のはいささか、鼎の軽重が問われるのではないかと思う。
谷垣自民党総裁についても同様の危うさを感じる。天皇個人の不快をそれほどまでに重視して、国民の知る権利を軽視するのは民主主義国家の政治家のメンタリティとしていかがなものか。
そしてもちろん、ビデオの非公開を決めたのは菅内閣、仙石官房長官なのだから、自分たちが民主主義に仕えているという認識の欠如がみられるのは彼らもまた同様だ。
たとえば仙石長官はビデオの公開が国民を激昂させ、「右傾化を招く」ことについて繰り返し懸念を表明していたが、これほど日本国民の名誉を侮辱する言があろうか。中国ならばいざ知らず、日本国民は自制は出来ている(出来過ぎているとも言える)。事実を提示したうえで右傾化するならば、それが国民の判断である。
仙石長官は牧民官にでもなったつもりか。勘違いも甚だしい。彼は国民の下僕であって、国民の主人ではないのだ。
行政として彼がするべきなのは、事実を公開したうえで、国民に判断の材料をできるだけ正確に提供することだ。
彼一人の判断力など、たかが知れている。