オルテガ的大衆の問題
乙武問題の話だが、これ自体は乙武問題の話ではない。乙武さんの例の件については幾つか記事を書いたが、最初の記事では論旨だけを書いて条文の直接的な引用はしなかった。この問題に口を挟もうという人なら、まあ事前に期待しておいても構わない程度の前提知識を踏まえた人、こうした差別的な案件について「契約の自由」や「経済合理性」が過去にどのような判断をなされてきたか、関連法であり、そうたいして長くは無い法律である障害者基本法やバリアフリー新法等にざっとでも目を通している人を、想定読者にしていたからだ。
自分の無知や怠惰にほうっかむりをして、「法根拠は?ねえ、法根拠は?」みたいな、論旨を読んで自分で調べれば分かる程度のことも調べない人も随分いたが、中には予約が相互履行の義務がある契約だということさえ知らないような人もいて、その知らないづくしの中で「はあ?何言ってんの?」みたいなことを言えるのは相当に度胸があると言うか、その根拠のない万能感はいったいどこから来るのだろうと非常に疑問に思った。
後で、乙武関連記事に同じコメントを貼り付けた人がいて、そういう根拠のない万能感を抱いている人を相手にするのもどうかと思っていたが、たまたま時間が空いて、相手側もやけに熱心であったので、ならばこの人を相手にしてもいいかと思って、相手にしてみれば、この体たらくだ。
今回の乙武問題では、法解釈云々以前に、スタンスの問題として非常に疑問がある態度がしばしば見られた。
法律家の見解は分かれることが普通なのに、都合の良い方だけを聞いて、自分で論理展開しないところ。
法律家が法解釈を提示しているならばまだしも、提示もしておらず呟いた程度のもの、しかも障害者を差別するようなことも明言しているような人の呟きを根拠として採用しているところ。
ポイントになる部分が幾つかあるが、例えば車椅子利用の伝達義務が障害者側にあるかどうかで正反対に解釈が異なるにも関わらず、そこはスルーしているところ。
努力義務を、本来は適合させるのが望ましいが、猶予されてそう努力する義務がある、程度に堪忍してもらっている、とは捉えずに努力義務なんだから何もしなくてもいいと捉えているところ。
もっとも、これらの問題は枝葉枝末であって、地下のマグマの塊が地表に影響を与えた山の形であるに過ぎない。問題は、彼らが立ち止まることもせず、論理を吟味しようともせず、知識で補強しようともせず、にも関わらず自分は絶対である、自分の考えは絶対であるとの思うだけではなく、その考えに立って他人を罵倒する、この無根拠のオルテガ的な大衆性にある。
根拠のない絶対的な自信を帯びているから、障害者側が自分の方に当然すりよるべきだという結論になり、それをしなければ障害者の立場は危うい、と本気で心配する。実際には彼らはただ叩き潰される側であるしかないのに。
もちろんこのオルテガ的大衆の問題は日本だけの問題でもないし、そう新しい問題でもない。しかしこの問題が非常に醜悪な形で提示されたという点に、乙武問題の特殊性があった。
よほど彼らの正義感、秩序意識を刺激する何かがあったということだ。
それはおそらく今回の件は、顔が見える乙武氏という著名人が直接声を上げた、というところにあるだろう。その論旨の是非は置いておいて、著名人が直接声を上げると注目もされやすいが叩かれやすい傾向自体はある。例えば、遙洋子さんだがあの人の言っていることがいちいち妥当だとは思わないが、どう考えても彼女の方が筋が通っているのに、彼女の論旨にというよりは彼女が何かを言えば叩く、という傾向があるようだ。
ただ、「顔が見えない」相手にも、例えば熊本県の元ハンセン病患者旅館宿泊拒否事件では、結局、旅館法違反による熊本県による営業停止処分を経て旅館の所有会社が、ここは個人的な感想だがあたかもあてつけのように、廃業して決着となった。この件では法的にはどう解釈しても被害者でしかあり得ない元ハンセン病患者を叩く声も随分あったことを踏まえるならば、弱者が声を上げること自体への反発、秩序を乱しているという意識が働いているとも推測できる。
乙武さんの場合はこの秩序攪乱者としての側面と著名人を叩きたいという欲求が重なって、あれほど大規模なバッシングになったのではないだろうか。
私は乙武問題の最初の記事を「乙武さんを叩いている人はよくよく自分を見直した方がいい」というような言葉でしめくくったが、書いておきながら、彼らがそうするだろうとはまったく信じていなかった。自省するようならばそもそもオルテガ的大衆になりようがないからである。
この記事でも、別にこれを書いて、彼らが読んだとして、「ああ、自分が悪かった」と思うなどとは微塵も信じていない。こう言う人たちは結局、叩き潰されることでしか、変わっていきようがないのだ。
障害者はどんどん訴訟をしていけばいいと思う。遅々としてではあるが日本政府が障害者保護の方向に進んでいるのは動かせないし、国際社会が障害者差別を単なる民事事件としてではなく人権問題として扱うようになっていることも動かせない。憐れみを請うべきなのは障害者の側ではない。