虐待と躾の間に

ヴァイオリニストの高嶋ちさ子氏が、躾として子供の携帯ゲーム機を破壊した件について、そしてそのことをむしろ誇示して新聞に寄稿した件について、それは虐待だろうという意見が多いが、そこまで言い切れるものか、ちょっとどうかなと思う。
私自身の事で言えば子供や女性を殴ったこともないし(自分自身が子供であった時の子供同士の喧嘩は別である)、他人のものを破壊したこともない。母親からは叩かれた経験は何度もあるが、そこだけを抜き出して虐待と言われればそれは違うだろうと思う。父親からは殴られたことはない。
私はきちんきちんとした人間ではなく、まして子供の頃は末っ子で甘やかされていて、だらしなかったので、片付けなさいと言われて片づけない、もう寝なさいと言われて寝ない、遊ぶのを止めなさいと言われて止めない、等々の聞き分けのなさは存分に発揮してきたのだが、だからと言って私の大事なおもちゃを親が破壊したり捨てたりしたことは無かったと思う。
もしそれをされていれば、ショックだったのは間違いない。それをされていたとしても、自分がいけなかった、次からはちゃんと親の言うことを聞こう、と思ったかどうか、たぶん思わなかったのではないだろうか。ただ、それをされていたとしても親は親であるし、一生引きずるようなトラウマになっていたかといえばそうとも言えないとも思う。
殴るのはさすがにどうかと思うが、子供がききわけがないならばおもちゃを捨てるくらいのことはする親はむかしは普通にいた。
私が高嶋氏の言動を見ていて思うのは、法三章みたいな思考態度だな、ということだ。世界観が単純だということだ。それはおそらく彼女の、ある種の清々しさとなって、魅力の一部になっている。だが子供と付き合ってつくづく思うのは、子は思う通りにはいかない、ということだ。理屈とか価値観とか、自分としては譲れない部分であっても、譲らないことにはどうにもならないことが多々出てくる。そのある種の諦めを知るということが、成長というのだと今は思うのだが、高嶋氏のかたくななこと。よほど子供の出来がいいのだろう。
高嶋氏の子供は生まれた時から高嶋氏の子供なので、高嶋氏の子供のプロであろう。こうすればこうなるということは重々分かっていたに違いない。
それでも禁を破って、ゲームを途中で止められなかったのだ。
よく分かる。
私も徹夜でドラクエをしたクチなのだから。
自分自身の弱さを思えば、そうそう強くは出られないだろうと思うのだが、高嶋氏にはその弱さを経験した、経験値が少ないのかも知れない。
私が小学生の時にファミコンが発売されて、世の中にこれほど面白いものがあるのかと、まさしく震撼した。
しかしおそらくその頃、高嶋氏は高校生くらいだったはずだ。
子供としてゲームに触れることもなく、子の親としてゲームに関与することもなく、言ってみれば1968年生まれ前後が日本で一番家庭用ゲーム機に縁遠い世代であったのかも知れない。
ずいぶん長い間、ゲームに触れなかったはずだ。
彼女からすればゲームとは、もやもやとした、何か危険なもの、であるのだろう。
高嶋氏が親として「きつい人」であるのは確かだが、それをそのまま虐待とみるのは少し違うような気がする。これは想像力と、もっとテクニカルな問題だ。
子供にペナルティを与えるにしても、「段階を踏んで」行う、例えば今日ゲームを決められた時間内で終えられなかったら、明日はやらせないとか、こう、もう少し穏やかなやりようがあるはずなのだが、彼女の苛烈な世界観は、その穏やかなやりようを「賛同はしなくても学ぶ」ということを怠らせてきたのだろう。
今回のバッシングは、少し行き過ぎと言うか、解釈が違うような気もするが、彼女がもう少し妥協することを学んだならば、この騒動も結果的には、彼女のためにも、彼女の出来のいい子供たちのためにも、プラスになるだろう。