アフガン親米政権崩壊が告げた真の21世紀の開幕ベル

仙谷由人官房長官が、自衛隊を指して暴力装置と評した時はかなり批判されたが(その用法自体は、社会科学では常識と言えるほど当たり前の用法である)、アフガン親米政権(ガニ政権)が崩壊し、タリバンがアフガンの首都カブールを陥落せしめた現状は、政治と社会の根底が暴力装置に依存していると言う当たり前の事実を、剥き出しにして提示してみせたのではないか。

冷戦期および冷戦後の極めて虚構的な時代にあっては、政治とは社会の枠内での、運動や椅子取りゲームであったわけだが、改めてそれらの行為が成り立つためには、暴力装置が機能していなければならないと言うことが歴然とした。

タリバンが、女性の権利を抑圧している、おそらくは今後何を言うとしても、現場ではもっと抑圧されるだろうと見通されることから、タリバンの慎重をフェミニズムの問題と捉えた場合、フェミニズムは避け続けて来たこの剥き出しの暴力において、いかに生存戦略的優位性を示せるか、と言うことが問われてくるだろう。

正義不正義と言う軸を敢えて無視した場合、体制間の生き残りゲーム的なゲーム理論的に捉えた場合、果たして民主主義社会とタリバン的な旧弊な中世的な価値観のどちらに分があるのか、結果は民主主義者が言うほどはさほど自明ではないのだ。

近代的な最初のフェミニズム運動は、マリー・オランプ・ド・グージェから始まり、フランス革命期に端を発するが、まさしくフェミニズム運動と出生率の低下はその時から表裏一体だった。私たちの民主主義社会はいかに自由な社会となるとしても、そもそもそこに物理的に人間が存在しなければ社会としては成り立たないのだ。

タリバン的な戦略は、その直感的不道徳性にもかかわらず、そこまで分が悪いものではないし、民主主義社会がそこまで自明的に強固なものでもない。少なくとも文字文明成立後は、ほぼ100%と言っていい比率で、ありとあらゆる社会が家父長的であったことを踏まえれば、タリバンが標榜する家父長主義は、非常に無理のない、自然なものとすら言うことも出来る。ただ、そこで抑圧される少数派さえ無視すれば。

そのタリバン的なものを受け入れられないのであれば、社会の枠内の運動だけではなく、それを支える暴力装置の維持に、これからの私たちはもっと意識的でなければならない。

もっとも、フェミニズムもポリティカルな意味では、これまでまったく下部構造としての暴力装置の維持に無関心であったわけではない。むしろその関心は、もっとも醜悪な形で露呈してきた。

女性と言う生物学的なハンディキャップがある、としたうえで、フェミニズムは、暴力装置の発現に熱心なトップ男性層と結託し、弱者男性を死地に追いやることで、暴力への貢献を証明してきた。

最近ではフェミニズムがあたかもヒューマニズムであるかのような顔をし(「属性での差別を許せないと思うのであればあなたはフェミニストです」的な)、女権主義、と言うか女権のみ主義と言う意味での本来のフェミニズムをむしろ逸脱的なミサンドリー扱いする傾向すらあるのだが、フェミニズムヒューマニズムであるならば、そこにはヒューマニズムがあればいいだけのことであって、フェミニズムはそもそも不要なのである。そうではなく、女権のみ主義であるからこそフェミニズムが成立して来たのであって、あたかもヒューマニストの顔をしてみせるのはプロパガンダ以外の何物でもない。

フェミニズムは、歴史的な事実としても、演繹的に考えても、社会の枠内で合法的に仕立て上げられた弱者男性に対する暴力でしかあり得ない。

当然、フェミニズムと言う分断要素が入ることによって、強者男性と弱者男性は安定的な結合が困難になるので、生物学的にはホモサピエンスの社会とは男社会であったと言う傾向を踏まえれば、社会を支えるそもそもの暴力装置(男社会)が弱体化するのである。

もちろんその弱体化については私たちは耐えるべきだろう。しかし耐えながらもなおかつ社会を維持するためには、暴力装置に負荷をかけていると言うことについては意識的であるべきである。

例えば、現代の戦争どころか18世紀の戦争においてすら、兵士同士がフィジカルな肉体で格闘技的な意味で戦うと言うことはほぼ無いと言うことを踏まえれば、男女同権と言うテーゼを維持するのであれば、女性もまた戦うべきであるのは、当たり前のことである。3歳児でも銃の引き金を引けば敵を殺せるのだ。

タリバン的な社会が嫌ならば、一番嫌であるはずの女性たちが率先して戦うべきであり、その戦闘能力こそが、剥き出しの暴力の世界において、権利と発言権を担保するのだ。

女子教育として必要なのは家庭科などではない。軍事教練である。

 

コロナの春を生きる

私は働いている。

私のように、子供のいない世帯に属している者であれば(介護もしていない)、企業にとっては調整弁になることが多く、「お互い様」「助け合い」「ギヴアンドテイク」の名の下で、「一般的なまっとうな社会人」のフォローに回らされることが多い。こちらが「お互い様で助けられる場面」は皆無なのであるが。

リモートワークを実施するにしても、年齢も年齢であるし、組織の中でもある程度、階位が高くなって判断が必要な場面にいなければならないこともあり、何人か私のような者が出社する必要もある。

そういうのに私はすべて「いいよいいよ」で受け入れてきた。今回もそうである。元々、鈍感な方ではあるし、いつ死んでも構わないと言う達観した思いもある。コロナへの恐怖は無い。

それで死ぬならばそれで死ぬだけの話だ。既に、漱石よりも織田信長よりも年長になってしまった。無理に死ぬつもりはないが、過剰に生にしがみつくべき年齢でもない。

そうなのだ。

私にとってコロナは境地の問題に過ぎない。

そして境地の問題としては私はたいして痛手を負っていない。

精神的にはかなりタフな方ではあるのだから。

それは私が今の時点では、雇用の心配がなく、失業者になるおそれもなく、持ち家も、それなりの金額の貯金も、ある程度の資産もあるからだ。

万が一、ここで失職しても、住むところがなくなることはないし、年金が出るまで、働かずに暮らすことも可能だ。生活の心配が無いと言うことは、9割以上の心配がないということでもある。

私は考えてみればさして「幸せになりたい」とは思って来なかった。「不幸から遠ざかりたい」とは思ってきた。私にとって幸せとは、不幸ではない、と言う意味でしかなく、9割以上はカネで補填がきくことであった。

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鴻上尚史氏の人生相談を読む。

鴻上氏も芸歴が長い。80年代の頃は、私は氏は嫌いだった。「バブル期の調子のいい文化人」そのものであり、態度も発言も軽薄だったからだ。

彼を嫌いになった決定的な契機があったのを記憶しているが、それがどういう内容だったかまでは覚えていない。

氏を批判するのにアナロジーでするのはさすがに失礼ではあるが、ニュアンスで言うのであれば、根暗な人に「ネアカになれよー!」とがんがん押してくるような無神経なキャラクター、彼の実際の性格はともかく、少なくともそういうキャラクターで売っていた時期があったのは確かだ。

今の「酸いも甘いも理解した人生相談の達人」の氏などはかつてからは想像もつかない姿である。かつての彼は決して相談者に寄り添うような人では無かったのだから。

人はそれだけ奥深いとも言うし、氏も氏なりに人生を重ねたからなのかも知れない。

コロナで生活が脅かされている人に対しては「お気の毒です」としか言いようがない。人間の想像力には限りがある。どれだけ備えていても、まさかこのような要因で生活が破壊されることになろうとは想像も出来なかっただろうし、備えるにも限度がある。

私も、平田オリザ氏や鴻上尚史氏が、「てめーは稼いでいるからいいだろ」と揶揄するほど稼いでいるとも思っていない。小劇場系劇団は搾取構造によって成り立っているのだが、搾取する側である劇場主や劇団主催者もまた、産業としての脆弱さの中にいるのは変わりはないので、搾取するにしてもたかが知れている。入ってくるおかねよりも出ていくお金の方が多いだろう。

そもそもまともな投資対象としては、小劇場系の演劇は入らないので、彼らに対する批判のうち「おまえらは稼いでいるだろう」と言う一点について言えば、不当だと思う。

鴻上尚史氏も、著述家としてのみ活動するのであれば資産を築けるだろうに、敢えてリスキーな演劇を行っているのだから、その文化的な奉仕精神は本物だ。

それでも。

きちんと雇用を創出し、社会保険や厚生年金を支払ってきた飲食産業と、おそらくはほとんどの劇団員が劇団員としては無年金な衝撃男系演劇を同列に置くのは間違っていると思う。

 

平田オリザ氏ら、小劇場系演劇人の発想の何が問題なのか

最初に言っておけば、私はそもそも演劇、特に産業として自立しているとは言えない小劇場系の演劇を表現芸術としてはさほど評価していないし、興味も無い。舞台演劇の定義を言えば、

①劇場もしくはそれに準じる興行空間において、演じられる。

②観客は着席する、もしくは自由には移動できない範囲内で立哨する。

③固定された前面空間を観客は鑑賞する。

と言うようなものになるだろう。よく言えば原初的な芸術であり、悪く言えば原始的な芸術である。

演劇人が、演劇の性質として、ライヴ性の必要性を上げていたが、別に撮影したものを映画として上映すればいいので、技術的にはそれは不可欠な要素ではない。

ただし、もしそうするならば、普通は映画の技法(ズームアップや音楽の適時挿入、字幕の挿入)などを採り入れるだろう。そうなった場合、それはもはや映画である。

つまり舞台演劇と言うものは、その原始的な表現方法によって「出来ない」と言うことを性質としているのであって、一般的に言えば「出来ない」と言うことはクリエイティヴィティの制約である。

21世紀の選択肢の多様性から言えば、資本やテクニックの不足から、演劇しか出来ない人たちがやっていることに過ぎず、そもそも演劇自体を私は評価していない。表現者として真摯で誠実であるならば、他の表現手段を取るはずだからだ。

ただし、それは私個人の評価であり、私個人とは関係のない場所で行われている限り、何の異存もない。

しかしながら、税金を投入するとなれば、それは「社会的意義」の話になる。

諸々の要素がこんがらがっているように見えるが、演劇事業への補償、補助金投入は、徹頭徹尾、「そこに公共の福祉はあるのかどうなのか」と言うことに尽きる問題である。

平田オリザ氏らがタスク設定としてそもそも間違えているのは、彼らがなさなければならないのは、財布の紐を究極的には握っている納税者に対して、その温情や同情、公共性の価値を認めてもらわなければならない立場である、と言う認識が欠けている点だ。

 

価値と言うものは市場価値である。カネで価値を計れるかと言う言い方はそもそもがおかしいのであって、貨幣が価値評価手段であることから言えば、産業の公共性は、規模、収益、労働者数などの経済価値によってのみ規定され得る。

それで言うならば大資本からなる商業演劇はともかく、小劇場系の演劇は、産業として平時から自立していないのであって、実質的な労働者(役者)に最低賃金すら保証できず、個人事業者扱いすると言う方の抜け穴めいた反社会性によりかかるしかない時点で、そこには需要はなく、需要が無いと言うことは、公共性に欠けているということである。

その公共性に欠けた産業に対して補償する必要があるのか、と言う納税者的な視点から、平田オリザ氏らの要請に対して批判の目が向けられているのであり、鴻上氏の「しょせんは好きな仕事をしていることに対する嫉妬でしょ」と言うのは、ずれたリアクションでしかない。

そもそもその批判が嫉妬によるものかどうかは証明不可能なものであるし、嫉妬から批判したとしてもロジックが通っているならば何の問題もないからである。

鴻上氏の態度も、「納税者に対して、意義を説明し、助力を請わなければならないおのれの立場」を自己認識しているとは思えない。その立場の不認識が「上から目線」だと言われているのだ。

税金と言うものは、好きなことではない仕事をしている人からも、時給800円で生計を立てている人からも、徴収すると言うことであり、その重さ、そしてその支援を受けるうことの有難さをまったく認識していない。これを傲慢と言うのでなければ、何を傲慢と言うのだろうか。

 

以前、私は「盗人だから猛々しい」と言う記事を書き、税金に寄りかかる人たちを盗人扱いするとは何事か、とプチ炎上した。

私が言っているのは、まさしく今回の演劇人の言動のようなことである。

盗人ではない、つまり本来的な自然な価値があるのであれば(市場価値、と言ってもいい)、そこへ公金であっても投入するのは費用対効果上合理的なのだから、その受益者もそもそも声高に声を張り上げる必要は無い。価値の実態があるから、その市場価値のロジックを説明すればいいだけである。

そもそも大衆も、そこまで愚かではないから、合理的に説明されれば、ああ、そうなのか、と納得するだけの話である。

声高に、髪を振り乱して、理解を示さない者たちを罵倒する必要があるのは、その市場価値の実態を持っていない者たちである。価値の実態が無いにも関わらず、公金なり利益誘導なりを望むのであるから、イデオロギーによる装飾が必要になるのだ。

今回の場合は「文化国家としての日本の貧困さ」であろう。

助力を請う立場でありながら、その助力を請う相手に対して、演劇人がなぜかくもみな、威猛々しいのかと言えば、穏やかに説得する材料がないからである。価値が無いからこそ、上から目線にならざるを得ず、モノガタリからの糾弾が必要になるのだ。

 

私としてはそんな茶番にとうてい付き合いたくない気持ちである。

女王エリザベス2世のスピーチ

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 チャーチルの演説になぞらえる向きもあるが。

 彼女が言えるのは抽象的な話だけだとしても、余りにも精神論に偏っていて、いささかマスターベーションのきらいがある。

 彼女の言う英国的なるものが事態を悪化させたとは思わないのだろうか。

 王室を含む現在の英国政府とウィンストン・チャーチルが決定的に異なる点は、チャーチルは早い段階から、執拗かつ的確に、そのために国内から「戦争屋」と批判され侮辱され、孤立したとしても、炭鉱のカナリアの役目をまっとうしたという実績がある点である。だからこそ彼の言葉は強く、国民を奮い立たせる。

 もちろん評論家、エッセイストとして頭角を現してそれによってある程度の資産を築き、政治的な意図があったとはいえ、ノーベル文学賞を受賞した作家である。それ相応のレトリックの技術を持っている。それこそ文章書きのお手本になるような。

 だがそのレトリックだけで、チャーチルは政治家としてのインフルエンスを得たわけではない。彼が被った迫害の数年間、ネヴィル・チェンバレンらとの対比によって、説得力を得たのだ。上っ面の言葉だけで動かしたわけではない。

 そもそも Covid-19 は東アジアで発生し、英国が本格的にパンデミックに巻き込まれるまでは、3ヶ月から4ヶ月の猶予があった。その間、英国から聞こえてきた声は、弛緩しきった皮肉屋の意地悪なからかいだけであった。

 マスクについても公衆衛生レヴェルでの疫病の蔓延拡大は飛沫感染を防ぐ効果は否定できないと言う点において、少なくとも全否定されるべきものではなかったが、英国人はおおむね皮肉げにそれを見ていた。

 WHOが日本が(日本政府が、ではなく日本が、であるが)死者数を低く抑え込んでいる点について称賛した時、それを取り上げた英国のTVニュースで「日本政府はいくらWHOに支払ったんだろう」と言うスピーチプレイを行って、それで深く検討すると言うことも無く、精神的優位を構築しただけで終わってしまった。

 こうしたスピーチプレイで話を逸らし、精神的優位を築くやり方は、今回だけの件ではなく、英国のメディア、国民性にはびこっている精神的病理と言うべきものである。その結果、発生から数ヶ月の猶予を与えられておきながら、膨大な数の死者を積み上げている英国の現状である。彼らは単に Covid-19 のせいで死んでいるのではなく、英国人のそうしたメンタリティによって死んでいるのである。

 エリザベス2世女王の、今回のスピーチは実態を伴わず、精神論だけを鼓舞しているう点では、むしろそうした「盲目の皮肉屋」から派生したものであるし、それに呼応する層は危機を乗り越えるための助力になるのではなく、むしろ危機の原因を招く層であろう。彼女自身、極めて英国的と言う点において「盲目の皮肉屋」性からフリーではないことはこれまでの発言の数々の例証がある。

 何かしらの危機的状況に対して三年寝太郎的な馬鹿力を発揮するのは、地方ヤンキー的なマインドであり、簡単とは言わないが刹那的な瞬発力があればいいのだから、それほど難しくはない。

 難しいのは日常において、健全な批判精神で自らを含めて全体をソートし、なすべきことをきちんと積み上げてゆくことである。

 英国はそのことが出来ていない。

大好物大河ドラマ「太平記」再放送決定

BSプレミアムで、大河ドラマの再放送枠があるが、2019年度は「葵~徳川三代」だった。2020年度は「太平記」と言う。

NHK1984年から近現代物と称し、「山河燃ゆ」「春の波涛」「いのち」と近現代大河を放送した。今から見れば、それぞれにかなり完成度が高い作品で、「山河燃ゆ」は「白い巨塔」「沈まぬ太陽」等で知られる山崎豊子が書いた渾身の問題作「二つの祖国」を原作とし、第二次世界大戦アメリ日系人が直面した苦悩と困難を真正面から描いている。「いのち」は橋田寿賀子のオリジナル脚本だが、「おしん」の知名度もあり、海外でも販売されて人気作となった。

それなり成果を残した試みではあったが、「大河=時代劇」と言う一般視聴者からの感覚からはずれていた面もあった。この3年間、NHKもそうした視聴者に配慮して、水曜日に歴史時代ドラマ枠として「水曜時代劇」の枠を設けていて、「真田太平記」のような傑作ドラマも産まれていたのだが、「いのち」の後の「独眼竜政宗」からは、大河も時代劇の本流に戻ることになった。

非常に評価が高い「独眼竜政宗」であり、実際、出来がいいと私も思うが、あそこまで視聴率が良かったのは3年ぶりの時代劇大河と言うことで視聴者から好意的に受け入れられた面もあると思う。

以後、5年間、「武田信玄」「春日局」「翔ぶが如く」、そして「太平記」と続き、そのいずれもが大河を代表する人気と品質を誇った。私はこの5年間を大河ドラマの黄金期と考える。

いわば、「大河ドラマ五賢帝時代」の最後、マルクス・アウレリウスに擬せられるのが「太平記」であって、特に「太平記」は現在視聴可能な大河ドラマの中では、個人的には最高傑作だと思う。

残念ながら次の「信長~King of ZIPANGU」からは、その後に続く大河の凋落、ポピュリズムの影が濃厚になっていった。

 

「信長~King of ZIPANGU」の駄作化の最大の理由は役者の技量の低さである。「トレンディ大河」と揶揄されるほど、当時民放で人気だったトレンディドラマの常連の役者を揃えたのはいいのだが、こなせるだけの技量が役者たちにはなかった。

2002年に放送された「利家とまつ~加賀百万石物語」も、研音がキャスティングの手綱を握り、同様に「トレンディ大河」と化したのだが、こちらは良い意味で役者たちが化けた。役者たちの技量はかなりの高度なもので、あの作品の問題点はあくまで安易な手法に頼る脚本の問題である。

 

実は、このキャスティングのトレンディ化の嚆矢は「太平記」なのであって、真田広之も民放のドラマでの人気者、脇を固める女優は当時若手の三大人気者、沢口靖子後藤久美子宮沢りえだった。

真田広之は子役時代から培った経験があるから、若手ではあっても演技者としてはヴェテランだったから見ていて安心感があったが、三美女は、まだまだ拙い面があったがそれぞれの個性に合わせた配役であり、短所を最小化し、長所が最大化されていた。沢口靖子のどこか浮世離れした「お嬢様」っぽさはいかにも正室らしかったし、後藤久美子の潔癖さは北畠顕家の清廉な軍事的天才ぶりを印象付けた。宮沢りえのハーフと言うマージナルな特性は、白拍子と言う枠外たる存在にあっていた。

最初、キャスティングの発表後に私が一番懸念したのは、足利直義役の高嶋政伸だったが、彼の大仰な演技はむしろ時代劇にあっていた。足利直義は、後半のキーマンになる役どころであり、キャスティングの時点では役の重さに対して、役者が軽すぎる印象があった。正直、「え?なんで?」と言う感じがあったが、高嶋政伸はよくこなした、そしてこれを乗り越えたことで一皮むけたと思う。

 

太平記」の中盤に向けての見どころは、何といっても鎌倉幕府の滅亡を描く「鎌倉炎上」である。鎌倉方の人たちはいずれも演技達者な人たちを揃えているのだが、良い人もいれば悪い人もいるのだが、いずれも幕府滅亡と言う歴史の大渦に呑み込まれてゆく。日本史上最大の滅亡のスペクタルであり、私はこの作品の放送後、鎌倉時代に耽溺するカマクラーの一人になった。

小町を脇にそれて祇園山の尾根につらなる高時腹切りやぐらにも何度か参っている。あそこは、雪でも降れば閉じ込められるだろうと言うような信じがたいほどの急斜面の住宅地を抜けて、わずかに棚田のような野原に着くのだが、そこが北条一門族滅の地となった東勝寺跡である。何もない。向かいには、鎌倉市内の違法駐車回収自転車の置き場がある。

そういう「聖地巡礼」をしたくなるような作品なのである。

山下達郎に聞いてみたいこと

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2019年年末の紅白で、AI美空ひばりが登場した件について、山下達郎が「あれは冒涜です」とバッサリ。

まあ、山下達郎ならばそう言うだろうなと思う。1953年生まれ、東京で一人っ子として育った彼は、進学校に通いながらも、海のものとも山のものともつかない、ポップス音楽業界に進んだ人である(そしていわゆるシティポップの開拓者の一人になる)。

信念の人でないはずがなく、音楽についてはもちろん、ありちあらゆることについて一言居士であるのは、今に始まったことではない。リンク先の記事のブックマークコメントで「山下達郎はラジオをやっているのか」と驚いている人もいたが、ラジオDJは彼のキャリアの重要な部分であり、結構、いろんなことに物申している。そしてその論理構成はかなり緻密なので、故やしきたかじんのようには、それをメインに出していないだけであって、時事問題を扱うパーソナリティには実は適した人でもある。

もちろん、彼の音楽的な造詣の深さとこだわりは、彼に「俗世間から超越した神仙」めいた印象も与えているけど、実際にはかなり政治経済寄りの人でもある。

あの世代のアーティスト、ざっくり言って「フォーライフ世代」「はっぴいえんど世代」は、マネージメントと言う点でもかなり合理的な経営思考を持っている人たちが多くて、と言って、その部分を必ずしも全面に出していないしたたかさがある。

ビジネスパーソンとしてそんなに与しやすい人たちではないのだ。「芸術家肌」と侮っていれば、そう侮った人たちは敗北していったのだろう。

ニューミュージックとは方向性が違うが、例えば矢沢永吉なども、非常にクレバーな経営者であって、たぶん大企業の経営も務まる人だ。混沌の芸能ビジネスの中から、アーティスト産業を立ち上げてきた人たちと言うのは、それだけの胆力を持っているのであって、単なる「芸術家肌」では務まらない。

竹内まりやが、山下達郎に「今後も音楽活動を続けていくにはどうしたらいいか」と相談したのが二人のなれそめだと言う話も、「一生懸命に聞き手のために歌を歌いなさい」と言うような精神論ではなく、具体的なビジネスメソッドの話であったはずだ。

彼らが商品として世間に提示している肖像画と、本来の自画像の間には開きがあるのだ。

この辺の紆余曲折は、もうすでに後世に残すべき歴史であって、彼らも還暦を過ぎているのだから、例えば松任谷由実松任谷正隆あたりに、裏も表も記した歴史書を残してほしいものだが、あの世代のすごいところは未だに現役への執着があるところだ。

ユーミンとかは、傑作を腐るほど書き上げて、富も名声も人生百回分くらいは確立しているのだから、そろそろ「伝記」作りにかかってもよいのではないかと傍から思うけれど、You Tube での配信を本格化させるなど、がっつりトレンドをわしづかみにしている。

それで、一言居士としての山下達郎の話だが、まあ、9割以上は、まったく同意と言うか、道理にかなったことしかこの人は言わない。それが世間から見て新鮮に見えてしまうのは、道理がいかに世間では歪められているかということでもある。

 

その、孤立峰のように清廉潔白な山下達郎なのだが、彼に一点の汚点があるとすれば、それはジャニーズ事務所との関係だ。

彼のプロデューサーでレーベルの立ち上げ者でもあり、ビジネス面での音楽的同士ともいえる小杉理宇造は、ジャニーズ事務所の取締役であり、ジャニーズエンタイテイメントの社長でもあった。元は、RCAで近藤真彦を担当した縁である。

山下達郎が近藤の「ハイティーンブギ」を作曲し、ジャニーズエンタテイメントの主力商品であったKinkiKidsの楽曲を担当しているのもこの縁だろう。

中森明菜の、例の金屏風会見の際、彼女はデビュー以来属していた事務所、研音を退社していて、彼女側にたって守ってくれるスタッフがいなかったのだが、当時、中森明菜の個人事務所の社長であったのが小杉である(ジャニーズ事務所の取締役でもあった)。

小杉はSMAP解散騒動でも、暗躍が噂されていたが、一言居士である山下達郎はその騒動についても他の業界人と同じく無言である。

まあ、無責任な第三者であるから、私はそういうことこそ、山下達郎の考えを知りたい、何か発言して欲しいと思うのだが、なかなかそうはいかないだろうね。

なにしろしたたかな世代であるから。

女性の同調圧力

IQの上下が、男性が上にも下にもまんべんなく分布しているのに対して、女性が中央値に固まっている(天才もいないが馬鹿もいない)ことから何が読み解けるだろうか。

これは男性の分布が広いと言うよりは女性の分布が狭いと捉えるべきで、進化論的に言うのであれば、これは生殖の結果なのであるから、男性の生殖において「知能」はさほど重要な要因ではない、とは言えるだろう。重要ならば上方になるよう圧力がかかるのだから。

対して女性は、中央値に近似することが生殖の成功に直結している。

これはおそらく、女性コミュニティ、母娘や女友達のコミュニティからもたらされるリソースが、子育てにおいて重要であって、知能の差のためにそのコミュニティへのアクセスに難が生じる個体は、例え僅かな損失であっても、世代を重ねるにつれてその遺伝子が排除されてきたことを物語っている。

「〇〇ちゃんってズルイ!」的な女性の同調圧力はこういう面にも表れていると言えるだろう。