男の生き辛さと女の生き辛さ

女の生き辛さはは、基本的には身体的な制約から生じる「社会的不適合性」のために生じている。これはすなわち、「女だからこれをしてはならない」「女だからこれをしなければならない」と言うジェンダーの押し付けをゼロにする、つまり本来の語義的な意味での「男女平等」を為したとしても、生存競争において脱落する、不利を被る可能性が高いと言うことである。

対して、男性の生きづらさは、「男だからこれをしなければならない」「男だからこういう配慮をしなければならない」と言うジェンダー押し付けに拠るものであり、「男女平等」は女性を解放することはなくても、男性は解放されるのである。

つまり、女性が生きづらいのは当人の生物的な無力さのせいであるが、男性が生きづらいのは女性のせいなのである。

 

先日、いわゆる「無敵の人」が保育を襲撃する未遂事件を起こしたが、犯人を取り押さえたのはまたしても男性職員だった。

こうした事件で、保護対象者を保護した性別が10件調べれば10件とも男性であるからにはこれはもう偶然ではない。

弱者属性を有する被保護対象者を扱う職業においては、女性には職業適性がなく、男性の「犠牲」の上に、本来、男性労働者が得るべき地位や収入を収奪しているのである。

フェミニズムは「男女の解放」を目指す思想ではなく「女性の権益を拡大する」ことが主目的である以上、この奴隷的収奪にフェミニストが言及しないのは当然とも言えるが、それらが言及しないからと言って、その奴隷的収奪が覆い隠されるわけではないのである。

 

本来ならば、フェミニズムが要求できるのは、1に無能力の結果を甘受して誇りだかい貧困を受け入れるか、2に無能力を認めた上で男性のリソースを収奪して男性に依存する劣位性を受け入れるかの二者択一でしかない。

 

男女平等は過分に負わされるリソース収奪甘受の義務から男性を解放するので、男性にとっては望ましいことでしかない。