守るべき国とはなにか

id:hokusyu氏の国旗・国歌に対するリベラルな解答 - 過ぎ去ろうとしない過去を読む。
私はこの人の言動を見ていて、頷じ得ない部分が多々あるのだが、それについてはおいおい機会があれば指摘するとして、リンク先の記事については同意。氏にとってはこれは少々、オールドリベラリストを演じて見せた稚気まじりの文であるらしいが。
コメント欄での、

すなわち君が代を卒業式でやろうとするから抵抗するわけでしょう。はじめから無かったら抵抗もクソもないもの。となれば、問題は卒業式で君が代をやる是非であって、それが(たとえば本文のように)不当なものであれば、責任を負うべきは一方にしかない気がするのですが。

というのも概ね同意。
これは直接的には、国歌斉唱 起立1人 卒業生170人 教員が指導か 門真の第三中 - 産経新聞なる「事件」を受けて書かれているようだ。
国とは何かということを突き詰めると、法的な存在であり究極的には憲法でしかあり得ない。これは積極的に憲法がすなわち公共であると言っているのではない。公共の公共性は何によって担保されるかを考えれば、憲法にたどり着くしかないという消去法の認識である。
他人に命じる時に、公共を根拠にするのであれば、それは憲法を公共と認識するしかないという話である。
だから私は憲法憲法と言う外形性のみが重要なのであって、その理念形は重要ではないと考える。現在の日本国憲法を前提にした場合、基本的人権の尊重、平和主義などのその主要な性格を変更することをあらかじめ日本国憲法が拒否していてなおそれに拘束性があるというのであれば、理念形と外形性はほぼ一致するが、それについてはここでは論じない。
公共=法であり、法=憲法であるということだけ、言っておけばいい。
従って思想信条の自由を憲法が保障するのであれば、それに沿って、生徒がどのように国旗と国歌に反応しようとあくまで各人の自由である。
公共の象徴として国旗と国歌があるとしても、それを受容するしないは個々人の自由であり、その不同意の自由をもまた公共が保障しているのだから、公共は彼らの不同意を擁護しなければならない。
ただし産経新聞の記事中の「事件」では公立学校での話であり、教職員は公務員である。
国旗国歌を掲げること自体は、憲法のもたらす秩序の象徴として非難されるべきものではない。そのことに、公務員として、公共の範囲を越えた思想的な誘導があったのだとすれば、公務員である教職員は処分されるべき可能性はあると思う。
これについてid:hokusyu氏は「非政治的な教育があると思ってはいけません。」とあっさり流しているが、思想の指針となる価値判断の中立性を要求しないのであれば(唯一依拠すべき価値判断が憲法であるという立場に立たないのであれば)、結局、恣意的な価値判断の塊であるわけの分からない「愛国教育」と文字通り、「どっちもどっち」でしかないのである。
単にどちらの方向にぶれるかというだけの話であり、強いか弱いか、声が大きいか小さいかだけの話になるだけだからだ。
教師が国歌斉唱において「立つ立たないは君たちの自主判断だ」と言っただけならば、単に事実を教えたというだけに過ぎず、むしろ結果として極度に政治的になり得る事柄において正しい情報を事前に与えたというだけに過ぎない。
そうしない方がむしろ公共なり、公共を基盤に置いた愛国においては問題視されるべきだろう。
しかしそこから踏み込んで、着席するという具体的な行動を誘導したり、促したり、説得したのだとすれば、公教育の中立性が損なわれる問題だと言うしかない。