倫理の一貫性

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↑でid:kurotokage氏が提示したリンク先の記事を書いた人がそもそも倫理の一貫性を行動として示してきたか非常に疑問があるのだが、id:kurotokage氏が仮に倫理の一貫性を問うのだとすれば、その対象の取捨選択は恣意的ではあってはならないはずである。
今、チベット問題についての関与の不在が問われている時に、アイヌの問題を提示することが出来るのであれば、パレスチナ問題についての関与の不在が糾弾されているときに、ではどうして中国の人権状況は問われなかったのかという倫理的一貫性が問われているのであって、そこにチベットアイヌの「共通点、相違点」以上の有意の差異があるのであれば、それを提示すれば良いだけである。
チベットアイヌの問題をぶつけて相対化しているのは、それをしている人たちであって、私ではない。私はその人たちの示しているであろうと私が認識している基準において倫理的一貫性を問うているに過ぎない。
そもそも表面的に人権問題に言及することと、人権問題にプライオリティを置いていることには違いがある。人権が、より普遍的な正義を形作っているがゆえに、提示された基準における倫理的一貫性の欠落は、容易に他者への攻撃と言う手段の目的化へつながる。
もし何かを提議して人権問題を問うのであれば、当然、提示された人権問題の倫理的一貫性は問われるのであって、その一貫性が示せないのであれば、あるいは一貫性を示す必要性が必ずしもない有意の差異があるのだと主張するのであれば、それを示すべきはまずは提議をなした人たちである。
そうでない限り、単に他者への攻撃という手段の目的化を容認することになり、それは現実の一貫した人権基準の脆弱化を促すだけの結果になる。
私が考えているように、ホロコーストの結果としてユダヤ人の聖化が、ユダヤ人社会やイスラエル国家への批判の抑制を生じさせ、結果としてイスラエル国家の暴虐のエスカレートを生じさせたのだとすれば、批判行動としての倫理的一貫性の欠落がもたらした現象と評するよりない。