左翼側から見た自称中道

左翼側から自称中道なるものがどのように見えるのか、どのように評価されているのかについては、
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080107/p1
↑の記事で概ね示されているようだ。同意と言える部分も多々ある。「自称中道」なる言葉が多用されているのは主に歴史修正主義と称される問題、特に沖縄戦南京大虐殺を巡る評価について、用いられているようだ。
id:fromdusktildawn氏はまさしく最初から意識して「オレ理論」を用いるとこうなるという話であるので、歴史学とはそもそも分野の違う話である。
帰納でもなければ演繹でもないというのもそうであるけれど、さてこれが自称中道の問題であるのか。
例えばある事件についてあったかなかったか、どれだけあったのかなかったのか、どのような影響をもたらしたと言い得るのかどうかについて、仮に「あった、なかった」がそれぞれにそれなりの根拠を示して論争しているならば、ある程度以上に事実に通じていなければならない。
材料もなしに判断することは出来ないからである。
そのような手続きを踏まえないようなものが自称中道だとすれば、確かに批判に値するだろうが、自称と言う割には、そのような人が中道を称している例は少ない。他称中道というべきか。
そもそも南京大虐殺のように、研究が蓄積している分野においては、ただそれを踏まえるか踏まえないかという問題があるのみであって、価値判断の問題は生じにくい。
id:CloseToTheWall氏は非常に不適切な分野で中道の問題を処理しているように思う。こういう分野における中道とは立ち位置の可変性にあり、「そうした偏りを前提にしてこそ、自分の立ち位置を自覚し、修正することができるようになる。」という言葉のうち、位置に重点を置くか、修正に重点を置くかと言う問題である。
手続きを重視した場合、結果の可変性をid:CloseToTheWall氏がおのずと前提としているのであれば、私の考えではそれは中道ということになる。
論争的になっている分野で不案内でありなおかつ知識を蓄えてゆく気もない(時間的な事情によってそれが許されない)のであれば、一番良いのは発言を慎むことだ。
これは言論の自由を抑制しようと言うことではなく、判断の材料を得ていないのであれば、論争を人気投票のようにするのはやめましょうという考えである。
思うに中道という態度は極端に価値判断の異なる中では生じない。何かしらを適切なものと捉えるのであれば、適切という価値判断が生じざるを得ないからである。
ゆえにそれは決して非政治的なものではないし、価値判断から完全に自由であるのでもない。非政治的でありなおかつ価値判断から完全に自由であると言う中道の評価、id:CloseToTheWall氏は正しいのだろうか。
結果の可変性を担保しているのであれば、それは中道を言外に否定できないように私には思えるが、氏は否定している。別のものを見ているのだろうか。
私が懸念しているのは、結果の可変性ではなく位置が重視されることだ。