自称中道、のようなもの

自称中道なる語を使いたがる主な人とのやりとりを通して、この語の解釈、議論における妥当性において一定の合意に達したものと考えている。

1.中道的価値観およびその一貫性を重視しないまま中道なり中立を称する立場を自称中道と称する。
2.それは主に歴史修正主義の分野において用いられる語である。
3.歴史学のように手続きと評価の一貫性を重視する中道的価値観を否定するものではない。
4.合理的なエクスキュースなしに一貫性を停止し、場合場合ごとに極端に恣意的な態度を示すことは批判される。
5.主に自称中道は歴史修正の意図がありつつそうした態度をとっている。

私が特に重視したいのは項目4である。
価値判断はおおむね重層的な構造をなしている。人権の尊重は比較的広い部分で共有される価値判断であり、現代の価値判断の底部をなしている。もちろん、人権なんて尊重しない、あるいは自分の人権は重視するけど他人のはどうでもいいという価値判断もある。
ただ、そうした態度は広範な支持を得られないというだけのことだ。ひとつの価値判断という意味では、普遍的な人権を尊重する態度も並立的な価値観の中のひとつであり、政治的な主張である。
この意味において、価値判断において完全に非政治的な主張なるものはあり得ないし、何らかの価値判断を根拠に置いているという意味で、中道なる思想があったとして、それが非政治的なものということはあり得ない。
ただし非常に広範な支持を得られている抽象的な概念は実際には公理として作用するのであり、現代においては人権の尊重はその代表的なものと言える。この価値判断を共有する限り、その内部にあっては、公理はより抽象性の高い基準として成立するのであり、その内部において恣意性を極力排除する姿勢として中道が成立し得る。
入学試験や就職において、公的な機関が特定の属性を優遇することは表面的には、機会の平等の一律性を侵害する行為と言える。しかしより普遍的な人権の尊重という公理から敷衍した場合、歴史的な経緯や生物上の限界により明らかに当人の責に拠らないハンディキャップがあり、なおかつそれを是正することに社会的な意義があると認められる場合、属性を理由として優遇をなすことは実質的な人権状況の改善につながるものとして支持され得るし、個人的には支持すべきだと考えている。
しかしそのような根拠が充分に得られない時に、機会の平等の一律性を阻害することは、人権状況の悪化をもたらすものとして、批判されるべきなのである。
問題は、実際には別個の基準で処理しているにもかかわらず、より普遍性の高い価値観で処理しているかのように振舞うことである。
たとえば、男女平等はより合意可能性が高い価値観であるが、男性に対して女性を優遇することそれ自体を是とする価値観はより支持を得られにくい価値観である。後者のような価値観を女権拡大の思想と評するとして、当然そうしたものがひとつの政治的な主張としてあってはいいのだが、それは男女平等という価値観とは別個のものである。
ここで注意しなければならないのは、男女平等という価値観においても、結果において女性を優遇するのはあり得るということだ。政府がどこまで踏み込むべきかという程度の問題があるとしても、何らかの状況によって一方の性が著しく不利な状況におかれていて、その状況に致命性がある場合、政府が積極的に状況を改善するよう行動し促してゆくことは、より普遍的な人権状況の改善においてむしろ求められることである。
その場合、重視されるのは実質的な男女平等であって、そのための女権拡大は目的ではなく手段に過ぎない。しかしそのような合理的な事由がない時に、男性のプライヴァシー権や感情と比較して女性のそれを優遇することは男女平等とは言えない。
それをするだけの生物上の制約や、損失の程度において大きな差異が合理的に提示され得るというのであれば話は別である。
社会的な状況の変化によって変わってゆくことであるが、容姿に対する傷害の慰謝料が男女で異なるというようなことは、社会状況における実質的な損失を考慮するのであれば合理と判断されるべきである。
それはそうした状況をひとつずつ検討して、何が実質的な平等をもたらすかを結論として導き出せば良いのであり、そうした手続きを省いて、女性感情の保護のみをいうのであればそれは男女平等ではなく、女権拡大であるに過ぎない。
もちろんひとつの政治的な主張としては、リベラリズムの寛容を前提として、その範囲内でなされている限り、そうしたものがあって悪いということはない。しかしそのようなものが男女平等を言うことは、ある種の偽称であって、より中道的な価値観である男女平等を標榜しつつ、実質にはそうではないものを実現しようとしている点において、自称中道の問題とほとんど同じ問題がそこに含まれているということになる。
かように、自称中道の問題は実は歴史修正主義にのみとどまるものではなく、自称されているかどうかさえ重要ではない。
それは合理的なエクスキュースなしになされる基準の一貫性の恣意的な運用の問題である。