子供は信じません

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なんだかずいぶん怒っているなあという感じ。
まずこの問題では、子供たちの政治的意思の問題ではなく、公教育の中立性の問題であると言うこと。
リンク先の記事の人は、子供たちの自主的な政治行動だとどうして考えないんだ!子供たちを信用していないのか!と怒っているけど、状況的な事実に対する評価が食い違っているのだろうなと思う。
私としてはリンク先の記事を読んで、呆気にとられ「阿呆なことを言っている」と思ったのだが、阿呆阿呆とお互いに言い合いをしてもしょうがないので、自分としてはこう考えますということを書く。
172人中171人が意思表示をするのは圧倒的かつ一般的な世論と言っていい。
中学生全般の意思というより普遍的な範囲に落とし込んだ時に、同様の現象が多々見られることが一般性の証明にもなる。
しかしこのニュースがニュースとして処されるほどごく特殊な事例であることから、中学生全般における一般的な状況とは処理できない。
つまり自発的な書籍による情報収集、メディアからの情報、それらを基盤に置いたうえでの自発的な思考が中学生一般にこうした行動を引き起こさせる、より普遍的な状況があるとは認められない。
この学校の生徒にのみこうした行動を起こさせる、何らかの特殊な要因があったと考えることに特に偏見は考えられない。
考えられそうなものをひとつひとつ列挙し検討してみる。
まずは171人がそれぞれ自発的に情報にアクセスしたうえで思考したと言うこと。状況のそれぞれ違う各個人が、それぞれ自発的にある解にたどり着いたと言うならば、この学校の生徒のみがごく意識的で他の学校の生徒は政治問題においてごく怠惰であると考えない限り、この可能性はごく小さいと言うしかない。
次に、公教育とは無関係の個人によって啓発されたという可能性。たとえば子供は親からの影響を非常に大きく受けるものだが、無作為に抽出された171人の成人がほぼ同じ考えを持っていると言うことはあり得ない。あるとすればそれはごく一般的な常識となっている場合であって、今回のケースは結果において一般的ではないのだからあてはまらない。別途、例えばごく意識的な生徒がいて、その人が他の生徒を説得したということもあり得ないではない。その場合、同調圧力の問題はあるが少なくとも公教育の問題にはならない。ただし4クラスから5クラスの生徒のほとんどすべてに、そうした説得をなせるアクセスが可能であったかを考慮すると、その可能性は否定は出来ないが、かなり特殊な状況とは言える。
無理なくアクセスが可能でありなおかつ説得の信用力があらかじめ担保されている場合として教師による説得が極めて蓋然性が高いと見ることに、論理的なねじまげは見られない。結局、これによる可能性がもっとも高いと私としては考えるが、いずれにしても事実確認をなすために調査を行うべきだろう。
公教育における過剰な干渉が高い蓋然性をもって疑われる時に調査を行うことは当然である。
それで何も問題がないと確認されればそれで良い話であって、生徒を信じる信じないとは無関係の話である。
一人の子が使い走りにされていたり、荷物を押し付けられたり、「プロレスごっこ」でいつも技をかけられて明らかに苦痛を浮かべている時に、当事者たちの「じゃれているだけ」というような証言をあたまから信じることが教育とは言えないのと同じことである。
もしそうした生徒の行動の表徴すべてが、自発的になされていると評価しなければ、子供を信じていないということになるのであれば、私自身はそういう意味においては信じていないし、学校教育もそうしたものを信じないでもらいたいものだと思う。