憲法秩序と国旗国歌

私は憲法秩序として望ましいのは、ただ在ることだけだと書いた。
現行の憲法が自由、平等、リベラリズムの理念に基盤を置いているのは確かなことである。しかし憲法はそれ自体が共同体の表徴であって、文字通り最高法規であり運用における価値の源泉であっても、それ自体が価値の究極的な源泉だとは考えていない。共同体の構成員によって支持されていればこその憲法だ。

共同体の意思>憲法

と考えているということだ。共同体の意思が主であって、憲法が従である。憲法が運用において唯一適用可能な価値判断であるのは、憲法を通してそこに共同体の意思があるからである。
この場合、憲法が提示している価値観を、知識として教えるということは公教育の範囲内であろうが、そこに正邪をつけることは望ましい態度ではない。
共同体の合意によって導かれた表徴としての憲法が、共同体の合意に働きかけることは、結局、合意の中立性を脅かし、憲法それ自体の正統性も脅かすからである。
このように考えた場合、公共機関において、とくに取りざたされている学校現場において、国旗を掲揚し、国歌を唱和することをどのように評価すべきだろうか。
国旗は、通常掲示されているだけである。それに対して、敬礼をしたり、国旗を振るよう要求することは、明らかに個人の内心の自由に踏み込んだ態度であるが、掲示されているだけであれば、憲法秩序の表徴としてそこに在るだけだと言える。
一方、国歌はテープレコーダーなどから音楽として流れている限りは、ただあるだけだが、唱和を要求する態度はそれよりは踏み込んだ態度である。歌と言うものは一般に発声されない限り、シニフィアンとして存在しないのだから、シーニュとして存在させるためには、唱和をお願いすること自体は、単に「在る」だけのための手段としてはあり得ることと考える(しかし現に、音楽再生機器という技術的手段があるのだから、それを用いた方が望ましい)。
それを越えて、個人に対して繰り返して、強要や説得をもって公共機関が唱和を要求することは、憲法秩序が在る範囲内から言っても、踏み込みすぎた態度であると思う。
私としてはそうした行為は公教育の中立性を阻害するものと考えるが、一方、憲法的な価値判断を「指導」することは是と考える人もいるらしいので、それがまかり通るならば、これもまたまかり通る余地が在る。
公教育の中立や、個人の内心の自由の尊重は、べつだん右派左派の対立とは関係がないので、結果的にどちらかに加担することもあるし、どちらかに懲罰的になることもある。
私は公教育の中立それ自体を、要求する態度だが、右派左派いずれかにより強力に立つ人に対する説得としては、中立の原則を公共に要求しないと、嫌なことをされても文句を言う理論的な根拠がなくなりますよと言うだけである。