パリ解放、クウェート陥落

ヴェトナム戦争当時の朝日新聞の記事の書き方の問題としてよく指摘されるのだが、東南アジアにおける左翼軍事勢力が都市や拠点を占拠すれば「解放」なる表現を用いることは、確かに恣意的に過ぎるように思われる。
個人であれ団体であれ、政治的な主張がありそれぞれの立ち位置があるのは当然だが、ジャーナリズムにおいては手法と手続きにおいて中立性が求められるのもそれがジャーナリズムである限り、また確かであって、ある軍事勢力の善悪をあらかじめ規定するかのような表現を用いることは、それ自体が問題である。
解放とは解き放つということであって、普通は圧政からの解放というように、ポジティヴな意味で用いられる。解放勢力とはあらかじめ善なる意味を含んでいる。
例によって、和田俊氏はクメールルージュによるロンノル政権の打倒、プノンペン進軍を解放と表現しているが、これが今日的な文脈において致命的な誤謬であるように思えるのは、もちろんクメールルージュの人類史上でも稀に見る暴虐が確定された歴史として明白に存在しているからであって、和田氏が記事を書いた時点では、不明であったがゆえに、新聞記者としては信じられないほどの失策とは言えても、人格的な問題にまでは敷衍しないで済むかも知れない。
しかしそうした状況や判断を成す材料が不明であった時に、明白に価値判断に踏み込んだ氏の態度は、単なる失策では済まされない、資質や職業倫理において致命的な欠陥を示していると私は思う。
後年、そうした過去の失策(単なる失策ではないのだが)について総括するなり、なぜそのような誤謬を犯したかについて著作をなして後世の範としたというならばともかく、そうしたものもないまま、彼はニュースステーションのコメンテイターに就任している。
ニュースステーションのコメンテイターがおおむね朝日新聞からの出向であったことからも分かるように、この人選は番組側からの要請によって朝日新聞が複数名、推挙を行っていた(番組側が面談のうえ最終決定した)。
そのうえで選出された人物が和田氏であるのだから、ウィークデイに視聴者に対してニュース解説を行う人物として、和田氏は適任と朝日新聞が判断したと言うことである。
そうだとすれば、やはり朝日新聞の識見が問われないということはあり得ないように思う。


一方、他の事例でも解放なる語を使用する例はしばしばある。
比較的、最近の例としては湾岸戦争において、イラククウェートを占拠すれば、クウェート陥落、多国籍軍(実質は米軍)が奪還すればクウェート解放、というような例があった。あの場合はイラクによる侵略は明白であったので、そのような表現はそれほどの問題はないかも知れない。しかし出来得れば私としてはより中立的な表現を心がけるよう、ジャーナリズムに対しては期待したいところだ。
カンボジアの例でも、ロンノル政権の腐敗は明白であったとも言えるからだ。
同様の例ではナチスドイツによるパリの占拠がパリ陥落、パリ占領であるのに対して、1944年8月のルクレール将軍の第2機甲師団のパリ入城がパリ解放であるのも、正邪の全体の評価に概ね異論はないものの、やはり中立的な表現とは言いがたい。当時のパリ市民の圧倒的多数が実際に解放されたと思っていたとしても、である。
フランスにおける政治権力の継続性という点から見れば、自由フランスは単に連合国に承認されたというに過ぎず(しかもルーズヴェルトはぎりぎりまで渋った)、どう考えてもヴィシー政府に継続という意味では正統性があったとしか言いようがないからである。
オピニオンにおいて偏りがあってもいいのだが、報道においてそれがあれば単なる偏向報道に過ぎない。偏向報道おおいに結構という向きもあるかも知れないが、ハースト系の新聞のようなものがもたらした悪意ある世論操作の前例を考えれば、そうしたものに迂闊には頷けないのである。