検閲について

はてなブックマーク経由で久しぶりにこの人のブログを読んだ。
「靖国」と表現の自由の逆説 − 石井紘基と公共の福祉の規制 - 世に倦む日々
ずいぶん叩かれているが、ドイツやカナダで、言論の自由を一部制限する法規制が採られていることを知らない人も多いのだろうか。
参考で、エルンスト・ツンデルはカナダからドイツに"送還" - 極東ブログにリンクをしておく。
思想的に右派であるとか、ナチズムに共鳴しているからという理由で、言論を抑圧し、国権によって人権の一部を制約することが、酷いことであるならば、カナダやドイツは酷い国である。
私とても、思想信条が異なるからと言って言論の自由を抑圧することはあってはならないと思うが、世に倦む日々の中の人が提唱している考え(反リベラリズムの思想を法で以って抑圧しよう)は決して孤立した極論ではない。
ドイツの場合は、同時代で最もリベラルで自由主義的だったワイマール憲法体制下で、言論の自由が結局ナチズムの台頭を防げなかったという現実に即した反省があってのことかも知れないが、私としては過剰な態度だとは思う。ましてナチズムが台頭したわけでもないカナダがドイツに倣うがごとき態度をとるのは異常だ。
アメリカとの比較で、穏健な印象の強いカナダだが、私はあの国のことは良く知らないが、この一件をもって根本のところで非常に偏った異常な国ではないかと感じている。


思想信条を表明するにおいて、検閲はむろん無いほうがいい。無いほうがいいが、むしろ民主的な社会において警戒すべきは実質的に検閲として作用する諸々である。
制度として存在する検閲は、実体として批判可能だし、それによって削除された内容を補うことは可能だからである。たとえば中国のメディアが13億の膨大な人口を擁しながら、国際的にほとんど流通性がないのは、検閲をしているからだろう。
だから信用されないのだ。
もちろんそれはそれで非常に大きな問題があるのだが、私たちの社会において当面の問題となるのは政府による検閲ではない。私たちの社会はそれを批判によってつぶす程度の成熟した力はあるだろう。
逆に言うと、世に倦む日々の中の人が圧倒的多数から批判されている限り、彼の主張するような、法によってリベラリズムを強制する必要はない。
問題になるのは、実質的な検閲効果である。マスメディアによる自主規制もそうだし、コメントスクラムによる暴力的な異論の排除もそうである。
こうした様相は多くは「言論の自由」の結果として生じている。マスメディアが自主規制するのは、そう促す「意見」に慮ってのことであるし、コメントスクラムのような暴力も、暴力の行使者から見れば、それは言論の自由の現れである。
id:lovelovedog氏が歴史修正主義者と叩かれているのは故ないことではない。故ないことではないが、一部は氏の人格にまで踏み込んだ憶測と罵倒をなしている。それが一部の者だとしても、一部の者ではない多くの者もそれを止めるでもなく、にやにやと笑っているようだ。
私はべつだん氏に同情するものではないが、単なる見解批判を越えた集団の暴力は、異論に対する排除効果を持つだろう。そこに警戒を抱く。
思うに、はてな界隈でそのような傾向が目に付くとしたら、90年代以後の右傾化の反動であるかも知れぬとも思わないでもない。過剰な攻撃は多くは防衛意識から生じている。
言論の自由が、それ自体が言論の自由を損なう圧力とならぬために、過剰な罵倒や踏み込みすぎた憶測を加えることは、決してメタな議論と切り捨てられるものではない。
言論の自由は私たちがこの社会を築く上で、基本となる自由であるが、同時に私たちはそれが実質的に増大するよう心掛けてゆかなければならないと思う。