チベット問題で何が批判されているのか

単に何かを批判していないから、その問題について賛成の立場を取っていると単純に解釈するのはあまりにも乱暴というものだ。
しかしチベット問題における左翼の不関与の姿勢が批判されているのは、そうした一般的な積極性の不在なる問題ではなく、恣意的な選択のありようが問われているのであって、そのような問題を、単なる一般的な積極性の不在と見るのは誤読だと考える。あるいは意図的な誤読であるかも知れないが。
そういう意味では、
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080413/1208021820
↑の記事で筆者が述べている、「チベットの問題に関して、日本の左翼は何やってんの、的な指摘というか言挙げというか囃し立てが一部で行われていたことについて、私は単純に不思議だった」なる疑問が生じるほうがよほど不思議である。
チベット問題は昨日今日の問題ではなく、特に日本と中国の関係において生じた人権思想上の軋轢において、決して周辺的な問題としては済ますことの出来ない、一事例だからである。
右翼側がそもそも人権状況についてプライオリティを置いていないにも関わらず、チベット問題について特に関与を要求するのは右派左派の対立構図上、問題を利用していない側面が無いとは言えない。しかし「為にする」状況が生じるのであれば、その脆弱性は左翼側の問題である。
何かしらの思考なり思想の道徳性を担保するものとして、正義の概念がそこにないはずがない。ただしプライオリティにおいて複数の正義があり、左翼と右翼は、普遍主義者と国家主義者は、同一の地平にもとよりいるわけではない。
従って。
同一の地平を仮に確保した時に、そこで生じる態度の矛盾や恣意的な関与の不在が批判的に検討されないわけではないのだ。
国家の繁栄とはなにかという抽象的な概念において合意が仮にあるとして、ある態度はそれによって批判されることがある。
人権を尊重することとは何なのかという合意があるとして、ある態度はそれによって批判されることがある。
それだけのことである。