危険なナショナリズム

確か日本で開催されたユニバーシアードでの映像だったと思うが、子供の頃、サッカー中継を見ていたらたまたま北朝鮮の試合で、スタンドには北朝鮮国旗があふれ、大きな旗を振りながら観客が熱心に応援をしていた。
その光景を見て、私は非常に不愉快になった。
なぜだろうと考えるに、ナショナリズムに耽溺すること、国家に自分を重ねることをよくないことだと私は思っていたのだと思う。
誰に教えられたということもないのだが、それが当時の日本の常識で、私もまた常識の中を生きる一人の子供だった。
それがかつての日本の常識だったからこそ、サッカーワールドカップで日の丸がなんのてらいもなく振られることに、少なからぬ人たちが違和感を表明したのである。
それは「悪いこと」だった。
今は、むかしに比べれば、その種のタブーは緩和された。それがいいことなのかどうかは分からない。
どちらかというとやはり悪いことのように感じる。
もう少し、時が過ぎたあとに、やはりテレビを通してみた映像なのだが、在日韓国人として知られる元プロ野球選手が、民団でのなんらかのセレモニーで、「世界に冠たる大韓民族、ばんざい!」とやっていた。
同じことを日本人がやればほとんど気違い扱いされていた頃である。
日本人でない人であっても、私からみればやはり気違いに見えた。
私が中国や韓国の人々の景色を見て、感覚的に気味が悪いと感じるのはそのナショナリズムの強さである。もちろん、そのナショナリズムは植民地支配を受けた、あるいは列強から侵略を受けた過去を抜きにしては語れず、彼らにとっては必然的な現象なのだとしても、傍から見ればやはり気味が悪いのだった。

さて、と思うに、同じような場面が欧米であったとして、それほどの拒絶を感じないのだから、やはり偏見めいた感情がそこにあるのやもしれぬ。
しかし更に自らの感覚を見つめれば、欧米であってもセルビア人やロシアの極右が示す排他的な愛国主義には拒絶感情を感じるのだから、ナショナリズムの程度を見ているのだということもできる。
エルガーはジンゴイストと非難されたが、威風堂々を歌うイギリス人などはべつだんジンゴイストと非難するほどのこともなかろうと思う。
その程度の自らを飾り立てる欲求は、生きるうえで不可欠の誇りとも重なる。誇りのない人ほど傍から見て醜い者はない。しかし滑稽なジンゴイズムはやはり滑稽である。
程度を問うならば、中韓ナショナリズムはくだらないものであるように見える。それはかつての大日本帝国の、劣化コピーであるかのように見える。

先の大戦で、負けてよかったと屈託なく言えるほどの確信的な敗北主義者ではない私だが、ともかくもそのような歴史を持つ国民として生まれ、そのような者として思考する。
私が中国に生まれたとして、べつだんむき出しのナショナリズムを掣肘する要素もないのであれば、ナショナリズムに耽溺しなかっただろうとは思えない。それに耽溺することは楽であり、快楽である。今の私から見て、そのようなものであるかもしれない中国人としての私を想定してみれば、実に不愉快な自画像を描くことしかできず、それを嫌だと思うのであれば、敗戦国に生まれた幸運を感じずにはいられないのである。