コンビニエンスストアの深夜営業規制について

だいぶ出遅れた感もあるが、この問題について思うことを書いておく。
コンビニエンスストアの深夜営業規制が電力消費節減のためには無意味で、それどころか逆効果であることは、多少でも発電の仕組について知っている人ならばものの数秒で分かることで、これを推進する門川大作京都市長の説明も二転三転している。
節電に関する議論がナンセンスであるとさすがに分かったのか、今度は二酸化炭素排出量に絡めて、規制の妥当性を訴えたが、コンビニエンスストア業界が深夜営業規制によって得られる二酸化炭素排出削減効果はごく微量なものと数字を挙げて反論すると、ライフスタイルの問題に話を転じた。


言うまでも無く、大半の人間の活動は昼間になされており、電力の消費も午後がピークである。本気で二酸化炭素削減、節電を進めるならば、昼間における節電が考慮されるべきだが、それでは影響を被る人が多い。
かつて24時間営業のコンビニエンスストアなどなかったのだから、規制しても大丈夫との昭和30年代マインドの「三丁目の夕日」派は言うが、それで言うなら冷蔵庫もクーラーもかつてはなかったのだ。
夏は暑ければ水を打ち、うちわで扇いでしのいだのだ。
私がまだ幼児だった頃、ATMはまだなくて、月末になると母に手を引かれて銀行によく行ったものだ。母は通帳を出して、窓口でやりとりをしていた。どこの家庭もそうだった。
今思えば、独身で一人暮らしの社会人はいったいどうしていたのだろうと思う。銀行は土日はあいておらず、おカネを引きおろすのさえままならなかったはずだ。
その結果が、実に98%を越える既婚率であり、圧倒的な数の専業主婦世帯の存在だった。
京都市長は、そうした時代に戻せ、というのだ。
正確にはそうは言っていない。電力消費を抑えるために一般世帯を昼間停電にし、暑いならうちわで扇げ、と言うならば、それはそれで筋が通っている。
しかし彼がやっているのは、主流派に何ら痛みを強いることも無く、ほとんど効果のないコンビニエンスストアの深夜営業をやりだまに挙げているだけである。
それはただ単に、少数だが切実にコンビニエンスストアの深夜営業を必要としている人たち、独身者や夜勤者たちをスケープゴートにしているだけである。
どうしてこのようなおかしな話がまかりとおっているのだろう。ほんの数年前ならば、行政がこのような筋の通らない理不尽な政策をなすと言えば、私はあり得ないと一笑に付していただろう。


しかし、多数派に痛みを強いずに少数派に負担を求める、というのは何もこれに限った話ではなく、日本社会の特徴でもあった。
中間層に厚い福祉、低い税率、専業主婦世帯への優遇は、そうした核モデルを外れた人たちにとっては、大きな負担をこれまでも強いてきた。今でさえ、専業主婦世帯モデルが支える長時間労働が、単親世帯にどれほどの犠牲を強いているかを思えば、福祉政策として専業主婦世帯への子育て支援などをなすのはまったくナンセンスであるが、それは今でさえ正義と見なされがちなのだ。
なぜならば受益者が多数派だからである。
必要な人たちに科学的・統計的な根拠に基づいて福祉支援を行うというよりは、多数派か少数派かで政策が決まってきた、日本は従来よりそうした主流派の専制が敷かれて来たのだ。
そうした主流派専制政治のターゲットに今回たまたま選ばれたのが、コンビニエンスストアの深夜営業であり、それを利用する人たちである。


こうした動きが環境保護の名目のもとに(実際はその効果はほとんどないか、むしろ逆効果であるのは明瞭なのだが)、京都市や神奈川県、埼玉県など民主党が与党となっている地域で発生しているというのは、私としては非常に腑に落ちる感じがする。
つまりこれまでのリベラルとは、単に主流派専制政治の中のエスタブリッシュメントに過ぎず、彼らの言う福祉とは多数派・主流派の福祉であって、そこから外れてしまう社会的弱者の福祉などはどうでもいいということの一例である。