As a Japanese man called "Motherfucker"

今年の初め頃、英米のネット上のフォーラムに遠出をして、捕鯨問題についてアメリカ人やオーストラリア人と話をした。落ち着いた対話になったこともあれば、「いやはやみっともないですね」みたいな勝利宣言をしたがる人がいるのはいずれも同じなので、やーいやーいおまえのかあちゃんでべーそ、みたいなことを言われてシャンシャンになったこともあった。
そこでよく言われたのが、日本人はマザーファッカーということであり、こういうのもそもそもの出所を辿れば、毎日新聞に行き着くのだろうと思った。これは一般的な侮蔑ではなく、明らかに実際に日本人がマザーをファックしている、という情報に基づいた指摘だった。
シオンの議定書なる創作がユダヤ人に何をもたらしたかを考えれば、当事者のひとりとして、こうした風評を無視はできない。
しかし当事者としての立場を棚上げして考えても、思うに、やはりこれはレイシズムの要素がなくはないと考えなくもない。そもそもの動機としてそこにレイシズムの明瞭な意図があったのかどうかはともかく、流通の仕方は結果的にレイシズムを助長していると言わざるを得ない。
反日的云々は置くとしても、日本の新聞であれば日本人を侮辱的に描いてもいいのか。レイシズムの被害対象者が自らの属するアイデンティティ集団についての偏見を助長する時、それはレイシズムではないのか。
確かに、性情報は日本のあらゆるメディアに溢れている。
ライアン・コネルの筆は、単なる翻訳にはとどまらなかったようだが、そうした有象無象の出版物やメディアをソースとする限り、彼の求める記事のタネには困らなかっただろう。
週刊文春に「淑女の雑誌から」という長く続いているポルノコラムがあり、これはその題の通り、女性誌に掲載されたポルノ短文を要約しまとめたもので、こうしたセックストークが単に男性のみのものではないことを物語っている。
最近ではどうかしたら小学生向けの雑誌にさえその手の話が掲載されることもあり、伝統ある少女漫画雑誌である少女コミックがある時期以後、あのようになってしまったことを知る人も多いだろう。
実際行動における日本人の性衝動の淡白さとは裏腹に、メディアにおいてはセックスが満ち溢れている。これは確かに日本の顕著な特徴かもしれない。
しかしもちろん、日本人はテキストの前提としてのコンテクストを共有しており、女性誌に、セールスマンと刺激的なセックスをした主婦の体験記が載っていたとしても、十中八九それが作り話であることを常識として知っている。
スポーツ新聞に、強引に女性を押し倒してことに及んで、女性が歓喜の喘ぎ声をあげるなんていう都合のいい話が掲載されていたとしても、現実にはほとんどあり得ないことを知っている。
受験生の息子を性的に慰める母親、というのもアダルトビデオの定番ではあるのだが(私はこの話型のそもそもの起源は毎日新聞にあるのではないのかと思っているのだが)、現実の世界では、そんなことはほとんどあり得ないことを日本人は知っている。
今あげたような話は現実に起こり得る話である。しかし一般的な現実としてはほとんど起こり得ないことである。しかしごく少数、現実に実際に起きている話でもある。
そうした日本人が持っている常識というコンテクストを離れて、テキストだけを提示された時に、発生することは、デイリーミラーUSAトゥデイを読んでいるような人たちからぶつけられる「マザーファッカー」なる罵倒であり、彼らの侮蔑に値する日本人という確信である。
コンテクストから離れたテキストを提示すれば、いかなる国民とて同様の憂き目に遭うだろう。
日本人とて、スウェーデンの単なる婚前交渉や福祉国家に伴う女性のセックスの独立を、スウェーデンのフリーセックスと勘違いして、スウェーデン人は誰とでもやるらしいと言っていたのはそう遠い日の話ではない。
マフィアの撲滅や、厚生政策上の発想から進められたオランダのマリファナ容認や売春公認政策について、性モラルが乱れているかのように言う人が少なくないのも、これもまた日本での話である。
こうした問題が、文化と文化の間には絶えず起こり得るのだということを、自らが被害者となった事例から私たちは学ばなければならない。