搾取する福祉

中国人の”容姿”に対する考え方〜開会式口パク事件について思う
を読んだ。
容姿が人間の才能のひとつということはそう。
容姿がその人の人生をいかなるものにするのか、非常に大きなウェイトを占めているというのもそう。
そうした現実と、そうした現実を踏まえた上で対策を考えるのと弱者を嘲笑するのはまったく別のことである。
この人は、
「世の中は競争なんじゃ、ボケ。馬鹿、貧乏、ブサイク、チビ、デブ、コネなし は淘汰されるしかねえんだよ。容姿で差別するな?はあ?偽善ぶっこいてんじゃねえよ!」
という中国人の考えに納得しつつあるそうだが、思うにこれはレイシズムとどこがどう違うのだろう。
障害者を安楽死させたナチスの発想とどう違うのだろう。
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乾いた笑いが起きる。まさしく中国が絡みさえすれば、他人をレイシズムと批判するような人が、たやすくこのレイシズムをスルーしてしまう。おさとが知れるとはこのことだ。
人を美醜で判断することが比較的少ない(それでも多いけれども)、私は日本のそうした偽善が好きだ。容姿には決して優れているとは言えない女性アスリートをオリンピック開会式のメインに据える、日本のそうしたところが好きだ。


もちろん、容姿は非常に大きな差異である。
身分制度が崩れ、メリットクラシーが拡充する中で、他の差異が相対化されていき、なおのことこの差異は大きくなっているといわざるを得ない。
障害者福祉や女性福祉はある属性に対する福祉である。同じく、容姿の美醜も大きな個人的な属性であるにもかかわらず、福祉の対象とはなっていない。
福祉はおおむね属性に対してなされるものだから、総合的に判断して個別の水準は問われない。
例えば、女性が男性と比較して傾向的に経済的に恵まれていないのは確かなことだが、ある個別の男がある個別の女よりも境遇的に恵まれているとは言えない。
フランクリン・ルーズヴェルトは障害者だったが大金持ちで権力者だったし、ヒラリー・クリントンは女性だがやはり富豪で権力者である。
プアホワイトに生まれた健常者の白人男性が、彼らより恵まれているとどうして言えるのか。
生きていくうえでの生き易さ、あるいは生き難さはプラスとマイナスの総合点である。
例えば、項目として富裕度、閨閥、知能、容姿、性別、健康とあった時に、性別が男性が100点、女性が70点ならば、男性であることは有利になる。しかしその他の項目で、劣っているならば、総合点では、不利になる。
政府による属性を理由とした福祉は、総合点を考慮しないことによって、総合点の弱者に更なる負担を押し付ける制度である。
福祉はまさしく、弱者にとって搾取であるのだ。
なぜならば、福祉がなかったならば、応じる必要のない負担に、政府によって応じさせられるからである。
もちろん、これは必ずしも個別の福祉の不当さを意味するものではない。
ある属性が現実に非常に大きな不利益を被っているならば、何らかの再分配が行われること自体は妥当であるのだが、問題は、すべての属性に対してこうしたことが行えないことである。
いや、すべてである必要は必ずしもない。
しかし容姿のように人間の幸不幸に大きく関わってくる要素が福祉の対象として考慮されていないことが、現在ある福祉が総合点における弱者に対する逆進性をもたらしているのである。
望むと望まざるとに関わらず、結果的に現在の福祉から恩恵を受けている人たちは、この逆進性に加担してしまっているのである。


私にもし独裁権力があったならば、容姿の評価をひとりひとり行うシステムを構築し、それに基づいて再分配を行うだろう。あるいは閨閥、親の学歴などについてもそれを行うだろう。
それか一切の福祉を止めるかだ。
政府は公平であるべきだと思うからだ。
一切の福祉を止めれば、自然状態における格差は是正されないだろうが、少なくとも政府による格差の再生産はしなくて済む。
もしそれがおかしいというのであれば、少なくとも実際的に人間の人生において大きなウェイトを占める属性の差異を、最大限、なるべく網羅しようとするだろう。
容姿差別に反対する余り、容姿の重要性を軽視する人たちは、現実に存在し、これからも避け難く存在する容姿の格差から生じる個々の不幸を助長してしまっている。