おおきく振りかぶっての声優キャスティング

オタク話でなんなのだが、最近、アニメ「おおきく振りかぶって」のDVDを観直していて、つくづくこの作品はよく出来ていると思う。本編25話の野球アニメーションでありながら、描かれた試合はふたつだけ。
日常を描いている場面はもちろんあるのだが、「タッチ」のように恋愛を描いているわけでもなく、純粋に野球メイン、それも野球の試合がメインでありながら、描かれた試合がふたつだけというのは、すべての投球、すべての打席をあますところなく描いているからだ。
ほぼ実尺の高校野球の試合に近い。
原作を忠実に映像化しながら、原作にはない色、動きを加え、丁寧に描かれている。使用されたカット枚数は通常のテレビアニメ作品の1・5倍から2倍だったというから、作り手がよほどいれこんでいなければ、出来ない作品である。
最高の原作を最高の技術で映像化する、作り手のそうした情熱は見るほどに感じられる。日本のスポーツアニメーション作品のひとつの到達点といっていいだろう。


そうした作り手の真っ当な情熱は、キャスティングにも現れている。すでに多くの人が指摘しており、スタッフやキャストたちも言明していることだが、この作品こそ適役、適材適所が貫かれた作品もちょっとないだろう。
適材と評するためには、まずは対象が明瞭な輪郭を帯びていなければならない。キャラクターの実在性が強く感じられるリアリティがなければ、どのような役者をあてようが、適材という印象も生じないのだ。
子供が惜しみつつ味わいながら舌先の飴を転がすように、原作者が明瞭な人物造形を成し、愛情とともに息吹を吹き込めばこそだ。
ほんの端役に至るまで、この作品で登場人物たちは深い愛情を与えられ、実在する少年たちであるかのように、また、その母親たちが見守る視線がそこにあるかのような丁寧さで彩られている。
原作者のひぐちアサという人が創作者として傑出した水準にあるとは思わないが、この作品は創作物として傑出している。それは彼ら登場人物たちが単なる想像の産物を越えて、原作者にとってほとんど実在の明瞭性を持っているからだろう。
彼女は作り手というよりは叙述者に近い。
そしてアニメーションのスタッフたちは、その叙述者と同じ情熱と愛情をわかちあっている。
年に幾つもの仕事をこなす彼らにとって、この作品は単なる仕事以上の意味を持っていたはずだ。彼らが彼らである理由、彼らがそこにいる理由そのものを与えてくれる存在だったはずだ。
そこでは個人の作家性でさえ決して重要視されるものではなく、それはむしろ歓喜と高揚の中で行われる宗教的な祭典に近似している。
神と共にあることは、自らを神とするという欲求さえも無化させる法悦をもたらす。
この作品がむしろダークなテーマを内包しているにも関わらず、そのすべてに漂う歓喜の織り糸はこの法悦のもたらすものである。
おおきく振りかぶって」はひぐちアサと言う名のヴェスタの主宰する謝肉祭なのである。


アニメ「おおきく振りかぶって」のキャスティングの的確性もまた、それが謝肉祭の一要素であるからには、当然ともいえる。現実の存在としての人間においては、必ずしもステレオタイプにはその人のキャラクターは一致しない。
ばりばりのキャリアウーマンが、幼女風の可愛らしい声をしているということも、現実にはあるのだ。
キャスティングの的確性とは、ではステレオタイプに沿う、ということなのだろうか。
ある程度はそうである。
創作されたキャラクターは、先天的にそのキャラクターを規定する遺伝的な要素をもたないのだから、文化的な共通言語によってそのキャラクター性を補強せざるを得ない。
頬がこけていて無精髭をはやしていればニヒル、というのは、その役割を叙述する上で、使い勝手のいい共通言語である。そうした風貌のみで、作り手と受け手の間に意味記号が成立するからだ。
こうした意味記号は不確定ながら、人間社会の統計的な経験から生じたものだが、いったんそれが生じれば文化的な記号として成立し、実際の人間がそうした記号に寄りかかる、ということも生じる。
人にそう見られたいがために、そうした共通性の高い記号を利用する人は、自己を創作的なキャラクターとして規定している、ということだ。
そうした双方向の作用が、現実の人間にもあるのだが、もちろん現実の人間は、そうした記号的な存在「のみ」ではない。
創作されたキャラクターの多くは、そうした記号的な存在「のみ」という点において、現実性と相違を示す。
これは、例えば「銀河英雄伝説」に登場する陰謀家のラングが家庭においては良き夫であり良き父であったとするが如き反対的な記号であっても、元の記号性を起点にしてそこから意図的にずらされているのだから、記号性の支配下にあるには違いない。
非常に古い例だが、アニメーションの雑誌のバックナンバーを資料として以前、読んでいた時に、「超時空要塞マクロス」のキャラクターであるリン・ミンメイが、放送開始前にファンによって描かれたイラストを幾つか目にしたことがあった。
放送開始前だからその時点では実際には一般の視聴者にはリン・ミンメイを理解する手がかりは風貌と設定集程度にしかなく、それら量としても程度としても少ない情報を元にして描かれたイラスト、ということだ。
リン・ミンメイはコミック的に描かれたのではない、日本のアニメーションではおそらく最初の中国人女性であるが、彼女の中国系という設定、チャイナドレスを着用した彼女の姿から、それらのイラストのほとんどは作品外に存在する中国人のステレオタイプに依存して解釈されていた。
つまりそれらはほぼ例外なく、リン・ミンメイをカンフーガールとして描いていたのだった。
この作品を見たことがある人は承知であるように、リン・ミンメイにはカンフーガールとしての要素は皆無に近い。それどころか、中国系としてのアイデンティティ、必然も描かれない。
現在、放送されている続編の「マクロス・フロンティア」に登場するランカ・リー、そしてその兄のオズマ・リーが氏名から中国系のルーツを持つと想像されるが、その要素はまったく何の意味ももっていないのと同じである。
リン・ミンメイステレオタイプを否定でもなく、反、に変えたのでもなく、ただ無意味化した、アニメのキャラクターとしてはごく稀な例であるのだが、もちろん別の側面でのステレオタイプはあるかも知れない。
そうした側面があったからこそ、飯島真理の声がキャラクターに「あっている」として多くの視聴者に支持されたのだから。
おおきく振りかぶって」も祭祀としての共有性を基盤にしている以上、キャスティングがキャラクターにあっているという評価の意味はつまり、ステレオタイプに依存しているということでもある。
私が思うに、現在の若手の声優の多くはプロフェッショナルな訓練を経ているがために、技術的な能力は総じて高い。
ステレオタイプに依存しながらも、最も的確な声色を作り出せるという意味において、「おおきく振りかぶって」のキャストの中では福山潤氏が特に技術力の高い声優として、例として挙げられるだろう。
私は結果的に彼が出演している作品を幾つも視聴しているのだが、彼はキャラクターによって、単に演技を変える、声色を変えるのみではなく、声質そのものを変えている。
コードギアス」「XXXHOLiC」「巌窟王」など主演作品に限っても、まったく異なったキャラクターを演じているのみならず、声質そのものを変えている。こうしたスキルはかつての声優と比較しても、非常に傑出した能力で、現在の声優の高い技術力を物語っている。
兼ね役がほとんどない「おおきく振りかぶって」においては福山潤氏は唯一、主要なキャラクターを二役兼ねているが、非常に注意深く聞いてもとても同一人物が出している声とは思えないほどの違いを出している。
そうした彼の「変える」という判断は何に依存しているのかと考えると、やはりこのキャラクターにはこの声、という共有された文化的な記号に依存しているのだ。
つまり「おおきく振りかぶって」のキャスティングの的確性とは、文化的な記号性を離れたところに由来しているのではなく、それを程度として徹底していることに由来している。
現実の人間は、キャラクターではないから、「その人らしさ」からぶれる幅がある。
例えば、木村拓哉の身長は「キムタク」ではあるが「キムタクらしさ」にそぐわない。
人気声優をキャスティングするような場合、結果的にそのキャラクターになることがある。声優はプロフェッショナルだから、役を与えられればそれなりに形には出来る。その結果生じるのは、そのキャラクターのコアに由来する表現ではなく、その役者によるキャラクターの創造である。
それがいいのかどうかはともかく、「おおきく振りかぶって」では結果的にそのような手法は採っていない。福山潤氏をはじめ、谷山紀章氏、下野紘氏、宮野真守氏など、若手の中では第一級の人気声優がキャストに名を連ねているが(野球部アニメなのでどうしても男性声優ばかりになるのだ)、間違いなく声優の名前でその役があてられていると思われるような例はひとつもない。
こうした少年が多数登場する作品では必ずひとりかふたりかは通常、見られる、女性が少年役を演じていることもない。これはキャラクターのコアが、アニメ作品としてのそれではなく、仮想的な実在性を帯びていることを意味していると思われる。
どれほど上手に声を当てようとも、少年の声と女性の声は違う。
まして高校生くらいになれば確実に違う。
アニメ作品の中でその差異が意識されないのは、それがアニメ作品におけるリアリティ、だからなのだが、「おおきく振りかぶって」ではアニメ作品としての意味、広い意味における作家性は重要視されていない。
おおきく振りかぶって」は作品それ自体が場であり、祭祀であり、独立的な空間を提示している。
一般にはそれは現実を重視していると捉えられるが、それは現実の現実ではなく、自律性を持ったパラレルな現実であり、徹底されたステレオタイプとしての非現実な現実である。


これらキャストの中で唯一、異なった位相に存在しているのが、阿部隆也役の中村悠一氏である。
氏にとって、この作品は文字通りの出世作となった。彼の声は非常に独特で、役を自分に引き寄せる型の声優である。才能のある人であるのは確かだが、氏には福山潤氏のような融通無碍はない。
おおきく振りかぶって」で注目されて以後、彼はまたたくまに他の作品で大きな役を獲得しているが(アニメ「クラナド」の主役や、「機動戦士ガンダム00」の敵役など。現在放送中の「マクロス・フロンティア」では主役の早乙女アルト役を演じている)、これなどは多くはまさしく名前を買われた例であると思われ、そのキャラクターのコアな個性からすれば、必ずしも適役とは言えない例が多いように思う。これはそのまま、キャスティングが間違いだった、ということは意味しない。
彼が声をあてることによって、多くはそのキャラクターは独特の存在感を増し、魅力を放つ。しかしそれは中村悠一氏と融合して新たに創作されたキャラクターであり、キャラクターのコアそのものではないのである。
おおきく振りかぶって」でも実は彼はやはりそのような存在なのだ。
イベントDVDが今春に出され、私はアニメイトでそれを購入したのだが、アニメイトでの特典として、主役の代永翼氏と中村悠一氏によるDJCDがついていた。
その中で中村悠一氏が言うには、一応、オーディションでは阿部隆也役を受けるには受けたが、狙いはその先輩役の榛名役だったとのこと。理由は簡単で、氏の声は明らかに成人男性の声であるため(もちろん氏はプロフェッショナルとしてもっと幼い声も出せるのだが声質として、の話)、高校一年生である阿部隆也の声としては向かないと思っていたとのこと。
これは決して過剰な謙遜や筋違いの見方ではなく、ブロゴスフィアでの評を見るに、回を増すにつれ中村悠一氏の演技とそのキャスティングの「的確性」への評価は高まっていったが、第1回あたりの評では、氏だけが高校生の声ではない、氏の声だけが浮いている、という評も多かったのである。
これが監督のかなり意図的な方策であったのは、中村悠一氏が設定年齢にみあった幼い声をあてようとした時、わざわざ地声に近い声をあてるよう指示されたという話からも伺える。
つまり、「おおきく振りかぶって」のスタッフは、阿部隆也に関してのみ、キャラクターのコアの個性を徹底することをずらしたのである。
阿部隆也はこの作品における視点であり、語り部である。台詞やモノローグは圧倒的に多く、その量は確実に主役である三橋蓮を数倍は上回っている。
この作品を貫くテーマとして、投手と捕手、投手である個人と捕手である個人の関係性、コミュニケーションの問題が据えられているのだが、一方の、かつ圧倒的な分量の基軸である阿部隆也に、物語の中心に位置するキャラクターに、水島監督らは異質な存在である中村悠一氏の声を据えたのである。
その意味、理由について、はっきりとおそらくこうだろうと断言できるほどの推論は私にはない。
ただ、たぶんそれによって、「おおきく振りかぶって」は非常に大きな説得力を増したのは確かである。
つまり祭祀性の虚構に異質なものを敢えて中心に据えることによって、統一的な現実感の持つ虚構性を打ち破り、制御のとれない新しい創造物である中村悠一氏による阿部隆也によって、無秩序な現実である「この世界」に一気に物語が引き寄せられたのだと思う。
中村悠一氏の声にはそうした力がある。魅力的な声優だ。製作者は是非にもと使いたがるだろう。しかし使い方は難しい。
緻密に世界を織り上げて、なおかつその中心をずらす、という発想が意図的なものであるならば(そしておそらくそれは実際に意図的だろうと思っているのだが)、ほとんど恐怖による震えが生じるほどの驚愕である。
そしてそれは確かに、私がこの作品をスポーツアニメのひとつの到達点と考える理由のひとつになっているのだ。