トリアージする社会

トリアージ論争なるものがあるらしいが、まったく読んでいないし、読むつもりもないので、たぶん全然関係のないお話。
NHK教育テレビで放送されていたのだが、各界のプロフェッショナルが小学校に赴き、小学生相手に授業を行う番組があった。
その中のある回の話である。
国境のない医師団に参加されておられる日本人女性医師が、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、ボランティアとして医療活動を行った際、次のようなことがあったそうだ。
重傷の子供の患者が運ばれてきて、助かる見込みは少ない。手術をするには酸素ボンベが必要だが、あいにく、残りは一本きり。ここで使ってしまうと、助かる見込みが充分にある患者が助からなくなってしまうかも知れない。
あなたならば、どうしますか?
子供たちに問いかけ、いろいろな意見が挙げられた。
私も考えてみた。自分ならばどうするか。
私は医師ではない。医師としての技量もなければ訓練もない。訓練とは、心の持ちようにまで及ぶ。
私ならばこうする、という考えがやがて固まったけれども、それはあるいは仮に医師だとすれば、医師失格の考えかも知れない。
私が考えたのは、私ならば選ばないということだった。
私の選択で人の生き死にが左右されるならば、私は選択をしない。そこまでする責務が自分にあるとは思えない。
具体的には目の前の子供をまず救おうとするだろう。先のことは考えない。なるようになるだろうし、なるようにしかならない。
私が目の前の重症患者の治療を止めて、全体の医療効率をあげるために酸素ボンベを使用しない選択をなしたならば、患者は私の選択によって直接的に死ぬ。
次の患者が酸素ボンベがないために死ぬとしても、それは酸素ボンベがたまたまなかったという不運によって死ぬ。
そのような時、私は選ばない。
それは神の領域である。
不運によって死ぬ者がいるのはしょうがないが、私の選択によって死を直接に及ぼすのはしょうがないことではない。


トリアージとは限られた資源を有効に活用しようとする発想である。
ここで問われるのは誰にとって有効なのかということだ。
トリアージにおける利益享受者は全体である。全体の利益を最大化させる試みがトリアージなのであって、個々人の利益の大小はそこでは問われない。
トリアージとはある種の全体主義の発想なのである。
しかし、社会科学もまた、おおよそそのようなものだ。社会科学は社会を分析するのだから、対象は社会、つまり全体である。
社会科学における合理が時に全体主義になるとしたら、それはそれが科学であるからではなく、社会であるからだ。
社会科学における分析が科学だからといって、それが全体主義ではないということは決してない。
全体主義とは孤島のように、明確な境界を持つものではなく、それはむしろ名前のつけられたある海域のようなものである。
大西洋を行く船はやがて連続した海を滑りながら太平洋へとたどり着く。
境界は連続しているのだ。
社会が関与し、社会の利益が考慮される時、そこには必ず全体主義が入り込む。それが科学的であろうとなかろうと。
一般に合意性の高い社会政策であろうとも、それが社会の利益から敷衍して考慮されている限り全体主義の特質を持ち、全体主義に伴う抑圧を持っている。
専業主婦世帯に対する福祉が、それ以外の世帯の負担となっているように。


歴史的な用語としての全体主義を糾弾する人であっても、社会政策としての全体主義に伴う抑圧には鈍感な人は多い。
その構造の中で抑圧を被り、それを感じている人が何らかの抗議の声を上げれば、レイシズムと嘲笑するのは得てしてそのような人たちだ。
それならばまだしも程度としてはいい方で、無能力者、経済的弱者などと侮蔑の言葉を与える。
既存の社会政策、社会福祉の人道性を熱心に説く人ほど、悲しむべきことにそうした傾向は強い。
「ならばおまえも権利を獲得してみろ」と突き放すものいいは、彼らが敵とする弱肉強食を是とする新自由主義者にそっくりだ。
まだしも新自由主義者の方が「人道的」だと言えるだろう。なぜならば、新自由主義における弱肉強食はメカニズムの作用であり、恣意的な結果ではないのに対して、福祉国家主義者による既得権益の擁護は、政府を通しての抑圧だからである。
トリアージする社会においては、私はむしろ、彼らから糾弾される無能力者、反動主義者、貧困者、レイシストでありたいと思う。
私は目の前の子供の命を奪うことに加担したくはない。