崖の上のポニョ、再考

http://d.hatena.ne.jp/iteau/20080910/p1
前回の考察で「酷評」した形になった「崖の上のポニョ」だが、もちろんアニメーターとしての宮崎駿の才能は健在である。
私が指摘したのは、彼の作品ほぼすべてに構造が欠如していること、オリジナルの度合いが強くなればなるほどそうであること、メッセージを読み解く手法では彼の作品の真価は問えないこと、そうしたことであって、ギミックの魅力はさすがというしかないレベルをなおも提示している。
例えば「風の谷のナウシカ」で言えば、あの作品の真価は、陳腐な環境破壊への警鐘というメッセージにあるのではなく、ギシギシとした王蟲の動き、どろどろに溶けてゆく巨神兵にある。
となりのトトロ」で言えば、少女の成長譚に真価があるのではなく、一夜のうちに種から芽が出て、巨木へと生長する樹木のアニメーション、猫バスのような独創的なギミックにある。
おお、と目を見張るようなセンス・オブ・ワンダー、そこに「宮崎駿の世界」があるのであって、彼の作家性とはつまり、彼が何を伝えたいかではなく彼が何を技術的に表現しているのか、にある。
かくも傑出したアニメーションの創造能力が、かくも貧困なる精神のうちに同居しているのが宮崎駿という人であって、傑出した面を見れば天才であるし、貧困なる面を見れば幼稚な駄作の人である。
その意味では彼は徹頭徹尾、アニメーション監督であって、映画監督ではない。
表現者であって、創作者ではない。
彼と言う人は自律的に行動して、結果として最も優れた作品を作る型の人ではない。本来、プロデューサーが主導権を握るべきなのだが、それがつまり、ジブリが彼を甘やかしている、という意味である。


崖の上のポニョ」は子供のために作ったという。これは率直な言い分にも思えるし、言い訳であるようにも感じる。
私もいきなり大人になったのではない以上、子供の頃の記憶がある。
子供の頃に読んだ、童話、絵本、児童文学のギミックが、どれほど胸躍らせるものであったかを思えば、例えば「崖の上のポニョ」に出てくるポンポン汽船が、子供たちの胸をどれほど高鳴らせるかを想像するのは難しくない。
鮮やかな海中の世界、水に浸かった地上の世界、朝目覚めた時に初めて見た雪景色のように突如として世界が別の色で彩られる興奮。
あの驚きを思い出せるならば「崖の上のポニョ」が子供にとって、とても大切な作品になるだろうことは想像がつく。
しかしそれらを効果として上げることと、物語の整合性をとることとの間にいったいどんな矛盾があるというのか。
どちらかを得るためにどちらかを犠牲にしなければならないようなものでは、ハナからないのに、宮崎はそれがあたかも二者選択であるかのように言っている。
それが言い訳だと言うのだ。
だから大人である私は言うのだ、これは駄作だと。
それは大人だから分からないのではない、子供でもかつてはあり、大人でもある者として、そう評するよりないのだ。