独裁が来ますです

ゴルバチョフペレストロイカ体制を支えた元ソ連外相(元グルジア大統領)シェワルナゼはグルジア人だったのでロシア語がそう流暢ではなかったらしい。
ロシア語通訳者の故・米原万理氏の著作に拠れば、反ゴルバチョフ・クーデターを予見した外相辞任時の警告演説「独裁が来る」も、邦語に訳すならば「独裁が来ますです」のような、文法的にはめちゃくちゃなものであったらしい。
それでも彼の真摯な呼びかけは世界に警告を与えた。
政権内クーデターが勃発した時、ソ連国内や世界が道を誤らずに済んだのは、シェワルナゼの警告によって事前の心構えが出来ていたからだろう。
日本ではようやく改正国籍法が成立した。
まずは良かった、というべきだろうが、これに伴う騒動は、非常に深刻な危惧を私に抱かせるに充分だった。
私はこれまで、国民の右傾化を言われても、あるいは衆愚化を言われてもそれほどの危機感を抱いていなかった。むろん紆余曲折はあるにしても、必ずや国民は正しい道を行く、民衆への信頼があったからである。
それが揺らいだとまでは言えずとも、この国の先行きに非常に大きな暗雲がたちこめているのを感じずにはいられない。
私は信じたい。人々が異なる意見を持ちながらも、事実と理性を尊重し、よりよき国を次代へと引き継ぐ善意を持っていることを。
私は信じたい。人々がレイシズムを退け、レイシストの陣営に加わるのではなくそれと戦う慈悲を持っていることを。
しかし信じたいという思いに身を委ねるには、私の中に生まれた疑念は大きすぎる。
事実と丁寧な説明と説得が、妄執に一蹴される、このような事態がかつてこの国であっただろうか。
そして国民を導き、未来の世代に直接の責任を負うべき選良たる政治家がかくも無知蒙昧であり、踊らされる存在であることを露呈したことがあっただろうか。
そう、これは終わりではない。
始まりの終わりに過ぎない。
成果と呼ぶにはごく当たり前のことに過ぎない国籍法改正は成された。
もちろん、ほっとはしている。同感の人は多いだろう。
しかしこれは終わりではない。
妄執に駆られた人たちはそこにいる。そうした人たちを利用し、あるいは利用されている政治家もそこにいる。
それが妄執であることをはっきり指摘した人がブロガー以外にいただろうか。
この国の政治家のうち、誰が真実と正義のために戦っただろうか。
国籍法は改正された。
しかし残された国はそのような姿である。


他称自称中道である私は右翼の妄執を指摘するのと同様に左翼の同質のものをもこれまで指摘してきた。
たとえばこの問題に絡め、在日外国人参政権の問題を言う人もいた。
しかしそれは「味噌もクソも一緒にする」ものである。
法治国家である以上、ごく当然のことである国籍法改正と、してもいいがしなければならない必然は必ずしもない在日外国人参政権問題を同列に扱うことはできない。
こうした「ごった煮」が無知な市井の保守的な人の心に要らざる負荷と疑念を植えつけるのだ。
私は民間の論文懸賞に論文を提出したことをもって「処分」された田母神前空幕長のケースが憲法上も国家公務員法上も非常に疑念を抱かせる、違法に近いものであることも指摘した。
田母神氏の見解をまったく評価もせず、別件では処分がなされるべきだと主張しながらなお、あの処理は不当であったと言った。
私は田母神氏を庇ったのではない。思想信条の自由、言論の自由をかばったのだ。
それをしない左翼がいざ、思想信条の自由が問われた時に抗弁したところで、どうして他人に説得力をもたせることができるだろうか。
敢えて言うならばそうしたご都合主義が、国籍法改正反対運動に見られた市井の人たちの反左翼・反人権感情を醸造したのだ。
しかしこのような時だから言う。
左翼か右翼かを二者択一で選ぶならば、嫌悪するはてなサヨクと嫌悪するネットウヨクのいずれかを選ばなければならないならば、私は左翼とはてなサヨクを選ぶ。
そうした選択をなすこと自体、他称自称中道である私にとっては敗北である。
しかし選ばなければならないならば、私はそうした選択をなす。
日本が過去に行ったのは侵略である。
侵略はいずれの国であっても今日的な倫理においては反省されるべきである。
南京大虐殺はあった。
田母神前空幕長の主張は稚拙で誤認が多い。
歴史修正主義は批判されてしかるべきだ。
そして国籍法は改正されるべきで、政府は人権擁護に尽くさなければならない。
そう考えるからである。
出来得れば、多くの人に同様の選択をして欲しいものだ。
祭りは終わった。
しかし政治は続く。
人々の人生も、この国の未来も続いてゆく。
私たちは、なお問いかけてゆかなければならない。
DNA鑑定義務付けを主張した政治家たち、付帯決議に扶養義務を盛り込むことを要求した政治家たち、彼らがいったい何を理由として、何を根拠として、それを主張したのか。
ポピュリズムの偶像は、必ず地に落とさなければならない。
彼らに、言説の責を問わねばならない。