区別と差別

区別と差別は違う。
しかし差別は区別の名のもとに正当化され易い。私が思うに、区別を正当化するには(差別とならしめないためには)以下の要素が必要だと考える。


1.区別を設ける公益があること
2.公益実現のためにその区別でなければならない合理的な理由があること。
3.区別によって生じる損失が受忍限度を越えないこと。


私は配偶者控除や専業主婦の各種優遇は容認しがたい差別だと思うが、そう考えない人が多数であるからそれが現存する。
私は証拠隠滅の可能性などを鑑みて保釈制度を運用するのは合理的な区別だと思うが、おそらくそうは考えない人もいるだろう。
個別のケースでそれぞれの妥当性を考慮するしかなく、あらゆるケースを区別の名のもとに正当化するのが誤りであると同時に、あらゆるケースを差別と糾弾するのも誤りである。
私は外国籍婚外子日本国籍を与えるに際して、認知のみならず生物上の血統を求めるのは合理であろうという意見を提出した。
そもそも認知によって何が担保されているのかと言えば、オリジナルの親権であり、オリジナルの親権は法的な血統主義に根ざしている。そして法的な血統主義が絶対の基準としてありながらも、生物上の血統を理由としての各種の救済・是正措置がある以上、法的な血統主義は生物上の血統主義を類推するための手段が基準化したものであるとの見解を提出した。
外国籍あるいは無国籍の子を認知することによって、日本人同士の認知には生じない日本国籍の付与という、特に焦点を帯びた、この場合第三者である日本国家にとって重要な利害となり得る要素が発生するのであれば、法的な血統主義に加えて、生物上の血統主義を求める余地はある。
これはおそらく解釈だけでも、民法を改変せずとも技術的には可能で、国籍法にこの要素を明記することも可能だと思う。
外国籍の子を意思において認知した場合、そしてそれが血縁がないことを認知していて、なおかつ扶養実態がある場合、果たしてこれを偽装とみなすのかどうか。
法務省の国会答弁を読む限り、みなせない、というしかない。
国籍取得を目的とした非血縁の外国籍の子の認知は偽装であるが、扶養を目的とした同様の子の認知は偽装ではない。
つまり、偽装認知として、刑事事件化するのは前者のケースのみであり、後者のケースの場合は、法的な血統主義を重視してはいるが生物上の血統主義を棄却している。
これは民法の定める法的な血統主義がそのまま国籍法に及ぶと考えれば合理でありそれ以外に考えようがない。
しかし、外国籍・無国籍の子を対象とした認知においては日本国籍の付与が発生するという特に顕著な事情を鑑みれば、法的な血統主義のそもそもの立法目的である生物上の血統主義を条件として求めるのは、不合理とは言えない。
準正要件が少なくとも過去において違憲ではなかったということはそういうことだろう。
準正要件は生物上の血統主義そのものではないが、それを補うものとして、特に加えられていた要件であろう。
この点、確かに国籍法の血統主義は特殊な性格があるというしかなく、今回の法改正がその特殊性にとくだんの配慮を与えないのも確かである。
もちろんそうするにはそうするだけの理由があって、実態を鑑みるに、国籍取得目的の偽装認知が激増する可能性は皆無に近い。
一方、ひたすら生物上の血統主義を求め、DNA鑑定義務付けを行った場合に考えられる当事者の受忍限度を越える損失と、その状態が招く法の下の平等の毀損は確実である。
これは公益の程度問題であって、必ずしも原理的な問題ではない。
程度として損失が甚だしいかどうかという問題である。
従って、改正賛成派の河野太郎代議士でさえ、仮に偽装認知が急増するようなことがあれば、鑑定義務付けを考慮する必要があることを言っているのであり、常識的に考えればそうした自体はまずあり得ないが、万が一、そうしたことがあれば、鑑定義務付けやむなしとの声が強まるのは必至である。
もちろんその場合でも私は義務付けには反対である。
どうしたって義務付ければ、父親側の拒否や死亡という事情によって国籍確認ができない子が生じるのは避けられず、それは当人の受忍限度を大きく越えた損失だからである。