西村幸祐氏の粗雑な論理

http://nishimura-voice.seesaa.net/article/111447233.html
リンク先の記事で、人権派は人権を擁護するならフィリピン人よりもチベット人拉致被害者を擁護すべしとの意見が出された。
これが明らかにおかしいのは、フィリピン人の人権とチベット人拉致被害者の人権はべつに二者択一でもないのに、それを迫っている点である。
問題になっているフィリピン人の子供の人権については、西村氏はその擁護に反対しているのだから加害側に立っている。人権に対して加害側に立っている人が、他の人権問題へのコミットメントの不在(実際に不在であるかどうかはともかく)を批判するという非常に倒錯した光景が展開されているわけである。
かつて私は主に左翼勢力のチベット問題への不関与の姿勢を批判した。
それに対して、id:hokusyu氏は「人権問題はすべて問題である」との意を示した。言っていること自体はもっともだが、左翼の中国関係トピックへの関与の多さ、知見の深さに比例してチベット問題へのコミットメントの貧弱さは明らかに選択的であったと批判されて仕方がないものであり、彼らの人権意識が時に極端にポリティカルなものであると言えよう。
そのポリティカル性を批判されている時に、一般的な命題に逃げ込むのは詭弁というしかない。
しかしそれでも彼らは、べつにチベット人の人権擁護に反対しているわけではないのだ。反対しないのだとしてもコミットメントの不在は結果的に同じ状態を招く。だから批判され得るのだが、積極的に人権侵害を擁護しているわけではないのは明らかだ。
西村氏はフィリピン人の子供の人権擁護に反対しているわけで、その人が他の人権問題における他者のコミットメントの不在をあげつらうのは詭弁の体さえ呈していない、はてなサヨクと比較しても、道義においても知性においても低劣なものだ。
フィリピン人の子供の人権などどうでもいい、それよりも氏の考える国益の方が大事だと思うのであればそう主張すればよい。それもひとつの意見ではあろう。ただし人権を尊重しているとは言えない。
レイシズムの主張をなすならば、レイシストと呼ばれるのは甘受すべきである。
公民権運動の時代のアラバマ州知事ウォレスは人種差別をとなえた人だったが、思えばあれなりに筋の通った人だった。
「今日も差別を、明日も差別を、未来永劫に差別を」
と主張した彼は、少なくとも自分がレイシストであるという事実は引き受けたからである。
しかしながら日本のネット上の右翼は、その水準にさえ達していない。


[追記]
http://www.yhlee.org/diary/?date=20020305#p03
不作為の批判であれば論理上おかしいというのも、ずいぶん単純な処理の仕方である。
作為があってしかるべき文脈にあって、不作為であれば批判され得るだろう。
人権問題を言いながら、より緊急性の強い問題、程度の甚だしい問題、関係の濃厚な問題はスルーしたとあれば、その一貫性が問われるのはむしろ当然である。