カルデロン一家問題の功利主義的考察

私は政治経済の問題について、ネット上でよく外国人と議論をする。
そういう場所に行くのだが、日本は孤立した国家であり、よく敵意を向けられる。
無知蒙昧な人がそうするというよりは、知識水準が比較的高い、むしろリベラルと呼ばれるような人でさえ、そうした傾向があり、基本的にデフォルトで日本は批判されやすい国であるということは自覚しておいた方がいいと思う。
日本が責められがちな主な争点は幾つかに絞られる。
第一に第二次世界大戦と戦後処理の問題。第二に経済政策の無策ぶりの問題。第三に難民受け入れ数の散散な状況に見られるゼノフォビアと閉鎖性の問題。
中には言いがかりに近いようなものもあれば、言われても至極当然というようなものもあった。
日本に対して批判的な人ほど、日本についてよく知っている。
先日の国籍法をめぐる騒動などはさっそく日本の閉鎖性の「証明」のひとつとして用いられている。
国籍法反対運動の愚かしさを言った私が、外に向かってはその弁護をしなければならないのは我ながらばかばかしいとも感じるのだが、事実として全称命題における日本人である以上、避けがたい作業でもある。
そういう時でも残念ながら日本人の多くはドメスティックで、私が反論なり言い訳なり説明なりをしている時に滅多に同国人の加勢があることはなく、たまにあればファックユー程度の罵り書きとあれば、ますます傲慢な日本人の印象を強めるばかりで、助けまでは期待しないにしても、せめて足はひっぱっるなよとほとほとため息をつくのであった。
カルデロン一家問題についても、これもまた日本の閉鎖性の証明、実際そうなのだから、これがまたどれほど日本の印象を損ない、長期的には国益を損なうかと思えば、うんざりしなくもない。
泣く子には勝てぬ、というのはどこの国でも同じことである。
左翼を人権人権とばかりというとあざ笑う人たちは、人権が実際に世界共通のイデオロギーであり、錦の御旗であるということを考慮していないのではないか。
日本は子供の権利条約を批准している。
同時に、こうした入管上の処理について解釈宣言を行っている。
純粋に条約の条文に従えば、入管の今回の処分は違法ではあるが、あらかじめ解釈宣言をしている以上、法理的には必ずしも違法ではない。
条約では解釈宣言の権利を批准国に与えている。
しかしそれは、批准国を最大限に増やして、現実的に最大限、子供の権利を国際的に守ろうとする意図からなされているのであって、ある種のリアリズムからくる妥協である。
解釈宣言を行うということ自体、この条約の精神からすれば反する行為であり、それ自体が非難の対象になる。
仮に解釈宣言をしていたとしても、条約条文に沿って解決を計ることが出来ないということではないし、どうしても公益上条約条文に沿えない時のために解釈宣言をすることは是としても、こうした大して悪影響もないようなケースの場合はより穏当に処理をすれば、解釈宣言をすることの非難は免れやすい。
私はこの問題を功利主義的にだけ考えているわけではないが、功利主義をまったく考慮していないわけでもない。
少なくともこれを穏当に処理することは国益に適うと思うから、人道的な観点から集中して意見を言えているのである。
この人たちを日本に残したとしていったい誰が困るのか。
日本人が尽きたがらぬ労働に従事し、税金を納め、社会保障制度を支え、少子化社会にあって子までなして育てている、その子は更に将来の日本人を産むかも知れない子である。
それでいて、いやそうであっていいということではないが、実際の話として、日本国籍や永住権を持たないのだから、財政に負担を与えるような公的福祉のほとんどを享受しない人たちである。
どうもありがとうというならばともかく、追い出そうとするならば損得勘定で言えば実に奇異な話だ。
それでいて、日本社会に感謝し、日本社会の利益を代弁してくれる「弱者」は私が外に向かって何かを言うより、よほど国益のために代弁者となってくれるのである。
情で判断するなというならば、利で判断してもいいのではないか。
ゼノフォビアは百害あって一利もない。