社団と福祉

「金持ちを貧乏人にしたからと言って、貧乏人が金持ちになるわけではない」
そう言ったのは、左翼の皆様方の宿敵、新自由主義の親玉、レイディ・サッチャーだが、それと同じことを左翼が言っている。
いわく、庶民同士で僅かな格差を攻撃するのは分断統治であると。
果たしてそれは正しいだろうか。
一般的に言って、生物的なニッチはゼロサムゲームであり、誰かが死なない限り席は空かない。恐竜が生きていればヒトは出現しなかっただろう。
既得権益がある限り、機会の平等が妨げられ、格差が固定されるという間接的な影響は確実にある。そしてその格差は微小なものであっても、より脆弱な立場であればあるほどそれが持つ意味は深刻である。
仮に飢餓線上にあるふたりの人間のうち、片方だけにわずかであっても食糧が与えられるならば、その「格差」は生死に直結する。
庶民同士の僅かな格差の方が意味としてより深刻なのである。
しかもその格差は、例えば専業主婦優遇政策のように社会的に意図的に作られているものである。ホームレスを殺しているのは専業主婦である、という私の言は決してただの煽りではない。
正社員の地位が危なくなりつつあるから、正社員は労働問題に目を向けるのだ。これがただ派遣社員の問題であれば、彼らは関心を持たないだろう。このように、「金持ちを引き摺り下ろすこと」は間接的には意味を持っている。しかもそれはただ間接的に意味を持っているのみならず、正社員が保護されている社団によって派遣労働者が排斥されている以上、それは「直接的な意味」を持っている。
社団を破壊してようやく、普遍的な国民国家が成立する土壌が出来るのだ。
社会的に脆弱な立場に置かれている人たちは、社団によって保護されている普通の人たちを「呪い」「嫉妬し」「引きずり下ろす」べきである。
「しょせん嫉妬しているに過ぎない」などという戯言には、「その通りだ」と言い返せばよい。
「自分はあなたと違って保護してくれる者もいないし、そればかりかあなたを保護してなおかつ私を保護してはくれない団体のために負担を支払わされている。私はあなたが憎いし妬ましい。あなたが私の立場に置かれるくらいにまであなたを引き摺り下ろしたい」
と明言すべきなのだ。社団に保護されている彼らが押し付ける道徳など、更なる弱者を隷従させるための手段に過ぎない。


社団モデルにおいては、社団の利益を擁護すること=福祉と自由を擁護すること、になる。しかし発生している問題は、社団モデル内部における問題ではなく、社団モデルそのものの問題である。
小泉郵政改革において、国民が支持したのは社団モデルの破壊であり、福祉の破壊ではない。このことを、自由民主党政府も、その批判者も往々にして誤読している。
例えば小泉政権を引き継いだ安倍政権においては、社団モデルの破壊が不徹底であったばかりか、福祉の破壊には熱心であった。
新自由主義は社団モデルを破壊する局面においてのみ有益なのである。
対して、安倍政権の批判者たちも、社団モデルを擁護するにとどまり、社団モデルを否定してなおかつ国民国家における福祉国家化を提示はしなかった。
いずれにしても不毛な話である。
民主党政権が社団モデルの解体に熱心であるかどうかはまだ定かではないが、福祉に軸足を置くのであれば、おのずと社団モデル外の人たちに焦点を当てざるを得ないので、この部分をまったく考慮していない自民党政権よりはマシである。


ここで世襲議員の何が問題であるのかについて語っておこう。
それは政治を巡る利益共同体が社団化し、それが永続化することが問題なのである。従って、支持者が異なる、つまり社団が仮にあるとしても、それが新たに構築され、スクラップアンドビルドを繰り返すのであれば世襲は必ずしも問題とはならない。
しかしそもそも世襲をする目的は、社団の永続と強化にあるのだから、世襲は道徳的に悪という以上に、システムを阻害するがゆえに悪なのである。
恐竜がいれば哺乳類が進化できないのと同じ理屈である。
死を獲得した生物だけが生き延びることが出来たのであれば、不老不死はそれだけで純粋な悪なのである。この面においても、自民党は社団の強化にむしろ軸足を置いている。
脱社団モデル化社会において没落してゆくのは歴史の必然であろう。