There is no new deal

民主党への支持に、数において性差がある、男性に比較して女性が民主党を支持する割合が低いことはかねてより言われてきた。様々な立場、見解の議員がいるとは言え、自民党に比較して民主党が概ねリベラルなのは傾向的に言えることなので、リベラル傾向が強いとされてきた女性が、民主党を支持することが少ないのは不思議だった。
それが正しいかどうかはともかく、おそらくこういうことではないかと言う自分なりの推論はある。
女性は、男性に比較して、家族や地域、人間関係が濃厚な社団の中に生きている。変化に対して、ワンクッションある、相対的に「守られた」環境の中にいる。
どう言ったところで、過労死する専業主婦はいないし、ホームレスになる女性も少ないのである。これは別に、女性全体が男性全体よりも恵まれているとか、そういうことを言っているのではない。
労働環境の悪化という現象をひとつとっても、多くの男性や独身者にとっては、生きられるかどうか、家族を養えるかどうかの問題であるのに対して、専業主婦にとってはパートタイム労働に出るかどうか、家計を切り詰めるかどうかの問題であり、どちらも相応に大変ではあるにしても困難の量と質において圧倒的な違いがあるのも、おそらく確かである。
そういう意味では同じ女性の間でも、既婚か未婚か、社会人か主婦か学生かによって「違い」が生じていて、「違い」が生じるということは利害も異なるということなのである。
夫婦であっても、夫が会社員として働き、妻が専業主婦であるならば、労働環境なり経済環境において切迫さが違ってくるのは止むを得ないことであり、このことは政治的な意味においては夫婦という極小の社団でさえ、利益集団としては成立し難くなっていることを示している。
家族間でも、若い息子とその老親では医療や年金の制度において要求が根本的に食い違うことも珍しくなくなり、生き方の多様化や変化の急激さが、社団の形成やその緩やかな連合をほとんど不可能にしている。
この社団の崩壊は、単に正社員と派遣労働者のような分かり易い二項対立において生じているのみならず、夫婦、親子、家族、友人のような極小の人間関係においても生じているのである。
それはあらゆる局面で見られる。
例えば仮にある有名大学の卒業生が卒業して10年後に同窓会を開くとしよう。
15年前くらいは、いずれもが同じような境遇、同じような家族、同じような社会的地位、同じような年収であった。従って、何を話したところで「地雷」を踏むようなことはほとんど無かった。
今はそのような均一性は既に無い。
年収ひとつとっても2000万円を稼いでいる者もいれば150万円程度の者もいないとも限らないのである。
既にここには、同程度の大卒者というロールモデルが担っていた利益集団性は存在し得ない。
リンカーンが暗殺されたのが1865年、フランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任したのが1933年、その間、78年間のうち、民主党が大統領職を握ったのは、16年間のみである。
ルーズヴェルトは分断され、連携を持たなかった民主党の支持集団、移民、知識人、労働者、低所得者などを纏め上げ、ニューディール連合と呼ばれる巨大な票源を作り上げた。
その結果、その後、実に20年間連続して民主党政権が続くのだが、これに対抗して、共和党もまたリバタリアン、資本家、宗教右翼ネオコンなどを纏め上げた。
社団を基盤として、利害調整を行って連合を形成するという手法は民主党共和党も同じである。
日本でもほぼ同様の「連合」が自民党社会党を中心にして形成されていったと見てよいだろう。
そうした時代、そうした社会においては、家族内でさえ利害が一致しないことなど考えられもしなかった。であるから、家族を重視する価値観、それは保守においてもリベラルにおいてもニュアンスは違うにしても基本的な価値観として据えられたのだが、家族内部でも世代間の利害の違いが浮き彫りになるにつれ、もはや家族を単位にしてさえ「連合」は不可能になっている。
例えば年金問題ひとつとっても、現在の老人と同じ待遇を、現在の現役世代が期待することはほぼ不可能になっているのだから、単に若者に向かって「あなたもいずれ年をとる(だから今の老人を養え)」と言ったところで説得できる余地などそもそも無いのである。


社会学や生物学における見方としては普通のことだが、そもそも家族や夫婦、親子関係のあり方も利害によって本来、成立している。利害と愛情が一致していたがゆえに、安定的だった家族という社団もまた、利害の一致を失えば流浪せざるを得ない。
ほとんどあらゆる生物において、親が子の面倒を見ることはあっても子が親の面倒を見ることは無い。仮にそういう種族がいれば絶滅するだろう。
人間も、子が親の面倒を見るのは全体としてはそうすることが利益に適うからであって、損得のバランスが崩れた時に、システムを純粋に愛情だけで支えることは不可能に近い。
既に、愛情や道徳や慣習に頼って社会を形成できるほどの土壌としての社団連合は無いのだ。


すべての単位を個人に置き換える、これは単に実態にシステムを調整するだけの話であり、少なくともそれが出来なければ先は無い。