小渕優子氏について、補足

そう言えば、と思い出したのだが、小渕首相が逝去した時、国会で弔辞を読んだのは村山元首相だった。通例はこういう場合は野党第一党党首が務めるらしく、当時の民主党代表だった鳩山由紀夫氏が読み上げることになっていたのを、遺族側が(報道では特に小渕優子氏がと聞いている)それを拒否したという。
小渕首相の実兄の株取引をめぐり、当時、疑惑があり、あれも小渕首相の死で有耶無耶になったが、それを追及していた鳩山氏に遺恨があったのだという。
与野党の社会的な役割を踏まえれば、余りにも幼稚な態度、この時は後に小渕優子氏の保護者然となった野中広務氏も鳩山氏の弔意表明を「白々しい」と詰ったのだが、野中氏が時折見せるそうした幼児性がどうにも彼を好きになれない理由だったというのも思い出した。
田中角栄は主張や手法は違えども、野党議員も同じく国民のために働く仲間として遇したと言うが、野中氏や小渕優子氏にはそうした懐の深さは微塵もない。
もっとも、遺族は往々にして感情的になるものである。
誰しも、感情としては理解できるから、表立って批判しないだけで、だからと言って、小渕優子氏のその振る舞いから幼児性が消えるわけではない。
遺族であれば許容できても、その人が公人となるのであれば話は別である。
疑惑が事実であったのかどうなのか、追及するのは対立党の任務であり、追及しない限り白黒は明らかにならないのだから、鳩山氏の言動が仮に小渕首相に心労を与え、それが死の一因になったのだとしても、それをしなかったならばそちらの方が問題である。
小渕首相自身は仮にも首相になるくらいの政治家だからその程度のことくらいは弁えていただろう。お互いに国家のために必要なことをやって、その結果、心労で死んだならばそれは名誉の死である。
その程度の覚悟もない人が政治家をやって困るのは国民である。
あれから時が過ぎて、今は冷静に見られるならば、今からでも遅くは無い、小渕優子氏は過去のこの振る舞いについて鳩山氏に謝罪のうえ、自己批判をすべきである。公人として。
なぜならば、疑惑において追及することが「道徳的な悪」として処理した彼女の過去の態度は、国民の将来の利益を棄損しかねないからである。
遺族であれば許されるヒステリーも、公人ならば許されない。その区別を彼女が持っているならば、今は公人ならばとるべき態度はおのずから明らかであろう。
それをしない、する必要を感じないということは、つまり公私の別がついていないということである。社団の中にいる人から、国民のために政治を行う人に変わりたいのであれば手始めはそこからやればいい。