国益を保持できない中国の外交政策

アジア、オセアニア地域の諸国のこのところの動きを見ていると、まさしく流動化という表現に相応しく、各国ともやや統制のとれない状況が見られる。各国ともリヴァイアサン的なすべてに対する敵となりつつあり、この辺りは19世紀末から20世紀半ばにかけての、欧州におけるドイツの位置づけに似ている。
ヴィルヘルム2世の愚昧な外交政策を批判するのは易しいし、妥当でもあるが、それは「あらゆることが統御できる、統御すべきである」との前提を踏まえることでもあって、果たして神ならぬ身である人類に、そうしたことが可能かどうかも問われなければならない。
中国はこのカオスの中にあって、中心に位置しているが(つまり、中国の行動が他国の外交政策を左右している)、根源的に問われるべきなのは、中国は脅威であるのか否かではなく、中国は統御可能であるのかどうかである。
外交政策が諸政策中においてどれほどのプライオリティを保持しているか、いささか疑問である。
パキスタンに対する好感度が中国国内では高いが、これはつまり敵の敵は味方、インドが中国の敵であり、パキスタンがインドの敵であるとの国民的なコンセンサスが中国国内にあるからである。
基本的には自分本位な理由から生じている好感度なのだが、パキスタンとインドが対立している根本の原因が宗教にあることを踏まえれば、パキスタンの支配的な宗教であるイスラム教に対して、対立的になることは中国の利益にそぐわないことは理解できるはずである。
しかしウイグルでの弾圧があり、これに対して、民族主義的な観点からトルコの態度が硬化しており、You Tube の動画やそこにつけられたコメントなどを見る限り、燎原の火のごとく反中感情が強まっていることが伺える。
これは中央アジアにおけるフリーハンドを失わせる外交的不利益を中国にもたらすだろう。
また、ウイグル人イスラム教徒であることから、イスラム世界全体が反中国の姿勢に転化してしまう危険もある。
もし外交戦略上の利益を中国政府が踏まえるならば、ウイグルに高度な自治を与え、漢人の入植を制限し、問題が発生するのをあらかじめ抑制しようとするだろうが、実際には19世紀以後、列強の侵略を受けた中国には過剰な国土保全主義があり、その危機意識が中国共産党アイデンティティの源流になっているがため、これを抑制するのは難しい。
列強からの解放を成し遂げたという成功体験が、その後の行動のフリーハンドを抑制している。
中国でのネット世論や各種論文を見るにつけ、その戦略思考は単線的であり、感情に左右されやすい側面を濃厚に持っている。
仮に日米を主敵に位置づけるならば、その友好国と分断を計り、他方面との摩擦を極力避けるのが合理となるが、実際には全方位的に中国は敵対関係を構築しており、それは戦略上のものではなく、戦略の欠落によって生じている。
そのことがまた、中国人の孤立意識を強め、全方位的にウルトラな言動が生じやすいという負の螺旋をもたらす。
中国脅威論の意味は、中国政府の意図的な、侵略ではなく、むしろ暴発的な、戦略の欠如にある。
ドイツの牙を抜くのに二度の大戦が必要だったように、中国の外交能力を高めるために物理的な衝突がいずれ必要になるかも知れない。