「沈まぬ太陽」の手法について

池田信夫氏が、“「沈まぬ太陽」は100%フィクション”と題した記事をお書きになっておられる。笑うべきだろう。
そもそも「沈まぬ太陽」は小説であって、ドキュメンタリーではない。小倉寛太郎氏の話ではなく恩地元の話である。そういう意味では「100%フィクション」であるのは最初から分かりきったことだ。
ただし、翻案した事実については、100%フィクションではない。
池田氏は吉高諄氏の発言を引いて、小倉氏の人格を否定しているが、100%フィクションと分かりきっているものを否定するのに実在人物の証言を引用するやり方自体ナンセンスだろう。
そもそも吉高発言の真偽を池田氏はどうやって検証したのか。
仮にそれが事実であったとしても、労使交渉とはそういうものであって、それが労働組合委員長の正しい姿であろう。
私も小倉氏がただ単純に理想主義的な、完全善玉であるとは思ってはいない。そういう人間はどのような組織であれ、トップには立てないし、立つべきでもない。あの巨大企業の労組を纏め上げ、経営と対峙した事実こそが、小倉氏のマキャベリスティックな性格・能力を語っている。
しかしそれは決して非難されるべきものではないのだ。
そうした価値判断に基づく評価ではなく、翻案の種になった事実において、はっきりとこれは事実であると提示できることがある。
小倉氏がカラチ、テヘラン、ナイロビと僻地勤務を通例を度外視して、懲罰人事を被ったこと、経営の肝いりで第二組合が結成されたこと、対立的な組合員に対して経営が懲罰的な人事を行ったことである。
そして吉高諄氏がその直接の責任者であるか、経営の一員として、道義的のみならず、労働法的に責任を負っていることだ。
その部分は100%ノンフィクションである。
池田信夫氏がやっているのは、こうした企業悪、企業犯罪の犠牲者に対して、人格攻撃をしているのと同じことだ。私は、小倉氏の人格の良い悪いを言っているのではない。それは事実の特定において無関係であると言っているのだ。
当たり前のことをここで言わなければならないのも情けない話だが、小倉氏の人格がどのようなものであれ、懲罰人事を被って良いということにはまったくならない。
吉高氏の「言い分」は法治国家の論理から見て、お話にならないほど幼稚なものであるし、それに乗っかる池田氏もまた同様である。
少なくとも池田氏のこの手法は科学者のするものではない。
山崎豊子氏は、執筆に当たって当然、名誉棄損訴訟を考慮しているので十全な資料を用意している。
名誉棄損訴訟になれば、当然それらも表に出るだろう。
陰に陽に圧力と妨害を加えた日本航空と関係者がもし合法的に可能ならば、出版差し止め訴訟等を必ずや行っているだろう。それがなされていないという事実が、状況証拠的に日航の言い分の「妥当性」を語っている。


とは言え、「沈まぬ太陽」における山崎豊子氏の執筆手法が相当にゲリラ的であるのもまた確かであろう。
私は全体としてはこの作品を是とするが、一般的に言ってこの手法には危険が伴うのも確かである。
山崎氏が「沈まぬ太陽」で提示した日航の闇とその体質の問題を、この文学手法の問題という一般論に落とし込むことが許されないのと同時に、日航の体質の問題を暴く是をもってして、この手法の問題を見逃しにすることもまた許されない。
歴史小説や社会風刺小説、パロディ、伝奇小説の類にはその危険がつねに付きまとう。
書き手側はその危険を深く意識する必要があるだろう。