「沈まぬ太陽」と日航の体質


映画「沈まぬ太陽」を昨日、観て来た。
3時間半はいかにも長丁場であるし、映画作品としてどうかと言われれば不満な部分は多々ある。ただ、こういうかたちで、こういう脚本で映画化されることに、意味があると思うし、この作品は「こうでなければならなかった」と思う。
どういうことかと言うと、小説「沈まぬ太陽」には複数の主題があるわけである。
日航労務問題
・信義を貫く恩地とマキャベリスト行天の対比
・恩地一家の葛藤
・航空機事故の遺族の苦悩
・政治と航空行政、腐敗した関係
山崎豊子は長編作家で、「沈まぬ太陽」は特に長い作品だ。対して、映画はせいぜいが、90分から150分程度の尺しかない。映画「沈まぬ太陽」は約200分と、近年稀に見る長さになったが、こうした要素をすべて詰め込むには、どう考えても尺が足りない。
純粋に映画作品として捉えるならば、幾つかの要素に絞って、それに伴って登場人物も削るべきだろうが、この映画はぎりぎり限界までそれをしていない。
小説「沈まぬ太陽」の可能な限り忠実な映画化に拘っている。
だから映画作品として言うならば「無駄に長い」という感想が生じる。しかしこの作品は「そうでなければならなかった」と思う。


沈まぬ太陽」は事実上、ノンフィクションである。であればこそ、日航はこれまで過剰反応を示してきた。
恩地のモデルとなった小倉寛太郎氏の過去の経歴を含めて、ほとんど人格攻撃、誹謗に近い「反論」もある。
しかし事実として揺るがせないのは、日航が労組の委員長経験者に対して、10年の僻地勤務なる懲罰人事を行ったことである。
日航の体質の核はここにあるのだから、この事実を否定出来ないならば、どのみち日航は非難を免れ得ないのである。
しかも伊藤改革が挫折した後、日航は再び小倉氏をナイロビ勤務にしている。極めてあからさまな懲罰人事であり、改革に対して、根強い抵抗がこの企業にあることを示している。
日航は事実上、政府所有のナショナルフラッグであって、政治、運輸行政とずぶずぶの関係にあった。
そうしたことが、無定見な拡大路線を招き、今日の経営危機へとつながっている。
腐りきった、と形容して良い体質だ。
私たち利用者から見て、航空会社は必要不可欠であるが、果たしてそれが日航であるべき理由があるだろうか。


http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10177917921.html
こちらのブログによれば、山崎豊子氏は執筆当時から日航の妨害を受け、「沈まぬ太陽」の映画化に際しても、幾度と無く企画されては頓挫してが繰り返されてきた。日航はマスメディアにとっても、有力なクライアントだったのだ。
名誉棄損を言いながら、山崎豊子氏は名誉棄損で訴えられていないし、「沈まぬ太陽」も出版差し止めにはなっていない。
代わりに出てくるのは小倉寛太郎氏個人への誹謗である。
既にこの状況が、真実がどこにあるのかを語っているのではないか。


しかし日航のような事例は、決して珍しいものではなかった。
懲罰人事を受けた労働者など、ゴマンといるだろう。小泉改革の「冷酷さ」を非難した国民新党の綿貫前代表の、自身が社長を務めたファミリー企業においてさえそうした例はあった。
そういう歪みが放置されてきたのが、戦後日本であり、その歪みが社会資本を食いつぶし、今日の衰退の大本になっている。


私は映画としてはこの作品に満点はつけられない。
それには理由があるのだが、欠点を敢えて残すべき理由がこの映画にはあった。そうでなければこれを映画化する意味がなかった。
これは日本人のために作られた映画である。この国が何をしてきたか、何をしてこなかったか、これまでもこれからもこの国で生きていかなければならない人たちのために作られた映画である。